前回の続き。引き続き、xiao-2の聞きとれた/理解できた/メモできた/覚えていた範囲でのメモ。敬称は「氏」に統一。
休憩を挟み、後半。ディスカッサント(討論者)からのコメントと質問。
- 入口敦志氏(国文学研究資料館 准教授)
- 今日の話は、デジタル化・所在情報の話を含む野口氏、中国の写本学の高橋氏、西洋における写本の松田氏。
- それぞれの接点がほとんどない。それほど本の問題は広範であり、写本だけでは話が進まない。特に松田氏、高橋氏の話に出てきたように、写本と刊本の関係を考えていく必要がある。
- 刊本が出てきたから刊本の時代になった、という訳ではない。刊本を作るためには草稿、版下など、写本が必ず複数作られる。それが残っているかどうかという点。デジタル化の話と、写本・刊本の問題を地続きで考えるために整理する必要がある。
- この場にいる人は古典の研究をしている人が多いだろう。古典とはどういうものか?
- 基本的には選択されたもの。どれを古典にするかという選択が、時代のどこかで行われてきた。
- 選択されたものがさらに標準化される。源氏物語など、たくさんあった写本を校訂してできている*1。
- 多くの本が存在していたものを、抽象化し、標準化したテキストができあがる、それを古典として研究している。その古典が、印刷された本として流通し、読み継がれることで普及していく。
- デジタル化の時代に我々は何をするか。古典+籍、すなわち古典籍を考えている。標準化されたものを、多くの刊本・写本の世界に戻していこうとしている。源氏物語なら源氏物語の写本・板本がこんなにたくさんある、ということを見て比較できる。
- 捨象・抽象化されたものが、カラーデジタル画像の世界に戻ることによって、具体像をもう一度読みこなさないといけない。これが古典籍。【ここで中継中断あり】
- 根本的な違いがあるような気がするが、それを聞きたい。東アジアにおける古典をめぐる本の、普遍的な問題。それを中国や西洋の方ではどう位置付けているのか。これからデジタル化が進む中でどのようにしていくのか。
- 今日の話は、デジタル化・所在情報の話を含む野口氏、中国の写本学の高橋氏、西洋における写本の松田氏。
- 松田隆美氏(慶應義塾大学文学部 教授)
- 同じような状況はヨーロッパの古典研究でも存在している。
- 昨年『テクストとは何か*2』という論文集を書いた。
- いわゆる西洋文学の中で古典とされている作品の、我々が読んでいるテキストは、かなり色々な取捨選択のもとにできあがったもの。それを知ってもらいたいという趣旨で書いた。
- ヨーロッパの文献学において、作者の真筆に近いものを探す研究は常にされていた。
- たとえば14世紀のチョーサーでは、すべての写本のデジタル化がなされて比較しやすくなった。
- となると、そういうデータをもとにして校訂版を作らなければならない。多くの写本のどれか一つを選ぶのか、それとも詳しい注を付けてすべてのヴァリアントを示すのか。
- どういう形が一番見やすいか。デジタルエディションで試行錯誤がなされている。
- コンセプチュアルな問題でもあり、実践上の問題でもある。
- 高橋智氏(慶應義塾大学附属研究所斯道文庫 教授)
- ご指摘の点は、中国では大変な問題。
- 中国では根本的に、本と書とを区別する。本はテキストであり、書は完成されたもの。
- 書物の世界においては、中国の文化では完成されたものを求める。原稿のように何度も書き直したものではなく、完全に綺麗なものにした「書」を尊ぶ。古来からの傾向。
- 校勘学、中国ではコウシュウ学*3。シュウは「うらむ」という字。なぜうらむか?二人の人が本を読む、お互い違うところを指摘しあうのが、恨みあっているように見えるから。
- つまりそのぐらい、書物には色んなテキストがある、色んな写本がある。それはひとつの完成されたテキストを作るためにある、という考え方。
- 校勘学=校訂学はあるけれども、最近はコセキセイリ学*4という。校訂して一番いいテキストを作る。
- 個別に存在している色々なもののデジタル化は、中国的な考え方からは、校勘の最終的な材料を提供するための方法。
- 【ここで中継中断あり】
- ジェフリー・ノット氏(スタンフォード大学大学院 博士課程)
- 本日のシンポジウムは世界・日本の写本を取り上げ、世界写本学という中で問い直すことが目標。
- 写本学自体はいくら盛んでも、たとえば装丁なども含めた、本当の意味の世界写本学が成立しているとは言い難い。
- 自分の専門は書誌学というより文献学。この分野でも似たような動きは最近活発であり、ある程度成果も出ている。
- 写本研究においても、こういう運動が無いわけではない。
- ドイツのハンブルク大学には写本文化研究センターがあり、叢書を出している。
- ただ叢書ではあるが、ほとんどの巻ではそれぞれの人が書いている内容は自分の専門領域に徹している。細かく分かれているので仕方ないが。
- 文献学には色々な方法、対象がある。書体であったり、テキストが最終目的であったり。それら各媒体の専門分野において、共通の目的が見出しがたい。
- 専門分野は数多く存在。たとえばパピルス学、コデックスなど、媒体ごとに写本研究が分かれている。そのパピルス学でも、それがエジプトなのか、ヨーロッパなのかで違う。
- 【ここで中継中断あり】
- 西洋の古代のパピルスによる巻子本もすぐ消えたわけではないが、西洋と日本の写本では冊子本の持つ性格も違う。
- 印刷技術が導入されても、江戸時代は写本のきらめきが消えなかった。西洋においては共存時間を経て、写本が現代までは続いていない。
- 世界写本学の成立が不可能だとは思わないが、まだ成し遂げられていない。成り立たせるために何が必要なのか?
- それぞれ自分の学問の観点から、本当の意味で世界写本学を作っていくには何が必要だと思うか。
- 松田氏
- 消極的な答えと、積極的な答えがある。
- 消極的な方としては、場の提供。フォーラムを提供する。普段は出会わない日本の写本研究者と、中国の研究者が、分からないなりに同じ研究発表を聞いたり読んだりする。
- Manuscript Cultureにはそれぞれ個性がある。その個性があるということを具体的に知る機会になる。
- 一緒に協働研究等とは難しい。ご指摘のとおり、一冊の論文集を出してもそれぞれ自分の専門分野のことを書いているといったことになるが、それも交流のためには大事。
- 積極的な可能性。
- 今日の発表でも、中国や日本の事情の中で、印刷があったからこそ写本のきらめきが生まれたという話があった。西洋の研究者にはなかなか出来ない発想。
- そのつもりで見直してみよう。西洋で17-18世紀にも詩集を手書きで作って回覧していたケースがあるが、これは印刷本と違う手書きのきらめきと言える。
- 漠然と情報として持っていたものに対して、考えていく枠組みをもらうことができる。
- 消極的な答えと、積極的な答えがある。
- 高橋氏
- 中国の文献学と、日本あるいは西洋のそれが同じ土俵になっていくのは難しいと思うが…。
- 中国の写本研究というのは最近見直されるようになってきた。
- 昨年、中国でもこのような写本をテーマにした国際シンポジウムが行われた。自分は行けなかったが。そういうシンポジウムが行われる目的はというと、中国の人が、日本の状況や世界の状況を知りたいから。
- 日本の江戸の写本が中心だとしても、それを世界の写本として中国と一緒に研究していこうという時に、まず日本の状況というものを向こうにきっちり紹介できるようにならなければならない。
- 個人的考えだが、そういう中で一番大切なのは形態書誌学。
- 形態がきっちり紹介できるようにやっていくと、ひとつの共通点ができる。
- たとえば漢字文献とかな文献でひとつの価値観を共有していくのは大変だが、これが形態の話になると話がしやすい。
- たとえば版本なら、江戸時代前期と後期ではどう違いがあるかという話。そういう形態的なことを写本についても分類して、誰でも分かるような形にしていくことが、共通点を見出すことにつながるのでは。
- 写本の文化はこれから大きなテーマになっていくであろう。間違いない。
- ノット氏
- 『世界の文献学』を読むと、各分野において手続き共有化したものについては、文献学の方法が割と通じているものがある。
- 吟味するレベルまでいかないが、あれば、間違いを犯しても指摘できる。
- 巻子本であればこのように読者が体験していただろう、冊子本になると読者はこのように感じていただろうという方法論がないまま進むと、空想になってしまう。
- 外的な要素があって、空想を制限するものがある。
- 野口契子氏(米国プリンストン大学 司書)
- 司会:勝又基氏(明星大学 教授)
- 野口氏
- 勝又氏
- 想像もつかない答えだった。ありがとう。
- 【ここで中継中断あり】
- フロア
- 版本が分からないと写本も分からない。日本の版本と写本を考えるときに、中国との関係、西洋との関係が気になる。
- 印刷が生じたときの写本に対する価値観。写本をどう認識していたか。
- 写本が残ってもいない、というのは写本軽視を感じる。
- 中国の刊本は写本の真似をしない。西洋では写本にそっくりなものを作るところから刊本が始まっている。同じ印刷術と言いながら、西洋と中国で差がある。どう思うか。
- 松田氏
- 【ここで中継中断あり】…は、オリジナルなものに近いだろうという思い込みがあって、19世紀のヨーロッパの書誌学はやってきた。
- 今では、それぞれ生まれたコンテクストが違うわけで、そのコンテクストを知ることが必要とされている。それを知ることで、どれがよりauthenticなのか知ることもできる。両方を並べて見ていこうという視線になってきたように感じる。
- 高橋氏
- 松田先生の話を聞いていると、やはり中国と西洋は違うと感じる。
- 中国ではなぜ刊本が中心なのかというと、印刷技術にすごく自負がある。決して手書きの本を軽視した訳ではない。
- 写刻本(しゃこくぼん)というものがある。書の達者な人が版下を書いて、そのまま版にする。書の写本を版木で彫ることができるという技術を誇っている。写刻本は非常に価値が高い。
- 印刷技術が発達したことで写本文化が不要と考えられたか、というとそうではない。中国では書写、書道の大家というのが重んじられている。なぜ書物においては写本でなく刊本が残ったか。
- 印刷技術の発達によって、写本文化を押し隠した。
- 松田先生の話を聞いていると、西洋では完成された美しい写本が基準になっている。中国では美しいものがあっても、それを木版に彫刻できる技術をさらに重視した。
- 宋の時代の出版物で「これは誰が版下を書いた」と記載されているものがある。その版下は中国の国立大学である国子監(こくしかん)の書生が書いたもの。版下に権威がある。そういう字体を伝えていることに権威がある。
- 写本文化という概念がない。中国は出版文化。葬り去ったわけではなく、写本も重んじられていたけれども。
- 確実なのは、宮中において皇帝に献上される本は写本だった。宮中で出版された本はある、でも権威はない。権威あるものは必ず写本。いちがいにどうとは言えない。
- 中国は、西洋とも日本とも違う意識のもとに作られた書物文化ではないか。それを念頭において向き合っていくと、分かることがある。
- フロア
- 自分が写本と版本の違いを考える時に思うこと。写本は、たとえ版本を写したものであっても、なんらかの意味で特定の読者を想定して作られたもの。版本はある程度不特定の人を想定。そういう違いを、日本の写本の場合には感じる。
- 西洋、中国の場合にはそういうことがあまりない?
- 松田氏
- 西洋も基本的に日本と同様。
- やはり写本は特定の所有者、読者層を想定して作られるもの。想定されるのは個人のこともあれば、ある特定の社会層ということもある。それがあって初めて作る。
- 印刷本は「これはきっとたくさんの人が読むだろう」という考え方。特定のグループを想定するのではなく、むしろ出版によって新たな読者層を開拓していくような。そういう傾向が18-19世紀になると強くなっていく。
- 高橋氏
- 中国の場合も、やはり写本は特定の人に向けたものであったとはいえる。
- 宮廷の写本は皇帝のために作られたものであり、基本的に皇帝以外見られないもの。
- 原稿があり、それを写して稿本になり、版下、刊本になる。そういう手順を伺い知ることができる。
- 写本は出版を前提にして作られるものだったのかもしれない。版下は版木に置いて削られるから、当然無くなる。原稿というのも、当時紙は貴重なので裏を別の用途に使われたり、反故紙になったり。
- 中国では、どちらかというと、出版を目的とした写本が多かったのかもしれない。明清の詩文集などで、出版されなかったものでは、出版を前提としていたであろう写本が残っていることもあるが、写本と刊本が両方残っていてしかも内容が同じというケースはあまりないと思う。刊本を作っていく過程の一つ。
- たまたま刊本が手に入らないので写すということはあっても、よりたくさんの人に見てもらうために写本にするという例はあまりない。出版文化というのは多くの人に読んでもらう、流布するための営為。
- 勝又氏
- 実際聞いてみて、ここまで違うのかと驚きを新たにした。
- 考え方、研究姿勢の違い。いろいろなものに根差した違い。
- 考え方も違うし、研究自体もとっちらかっているが、そういう時代だからこそ訴えていかないといけない。今後の課題。
感想。
- 前半も面白かったが、入口氏の論点整理で、おおっそう繋がるか!とテンション急上昇。
- ひとつの国の文化からその国の出版を考えるのか、一つの出版というテーマからそれぞれの国の文化を考えるのか。今回は日本・中国・西洋の話だったが、日・中・韓の出版史の話を並べて聴くのも面白そうだ。
- 野口氏と勝又氏のやりとりの箇所で、司書にとっての当たり前が、研究者にとっては思いもつかない事象だったというコメントが新鮮だった。似たような場所で似たようなモノを扱っているように見えても、お互いに知らないことがあるのだなぁ。
- 一通り聴いたら、印刷博物館に行ってみたくなった。