明星大学日本文化学科公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」を聴いた。~後篇

 前回の続き。前回同様、xiao-2の聞きとれた/理解できた/書き留められた/覚えていた範囲。敬称は「氏」に統一。論理が飛んだり意味不明なところはだいたいxiao-2の能力不足なので、ちゃんと知りたい人はここから先は見ずに、動画のタイムシフト*1とか、Twitterまとめ*2を見るといいよ。

 休憩を挟んで後半開始。司会は飯倉洋一氏(大阪大学 教授)。

  • 飯倉氏

 これからディスカッション。猿倉先生からの希望もあって、最初に皆さんに手を挙げていただきたい*3

 まず、ご自身の今の環境。「1.大学、あるいは研究関係である。2.国語教育関係。3.それ以外」それぞれ挙手してください。…わりと分布が均等。

 もう一つ。現時点で皆さんは肯定派か、否定派か、どちらでもないか。

 もう一つ。基調講演を聞いて、もともと考えていた考えが変わったか。…結構いる。その方がどういうふうに変わったかはあえて聞かない。
 それではまずパネリスト3分ずつ、他の基調講演を聴いた反応や、補足等を話してもらう。

  • 猿倉氏

 私が大学で授業をやっている、ひとつ前のコマが国文学。それなりの進学校の古文の授業だと、試験にあるからいやいや受けているので殺伐としている。しかし大学の国文科の授業というのは、横で見ていると幸福感がある。こういうのは好きな人だけでやった方がいいものだなと感じた。芸術には、たとえば絵が好きでもこの絵は嫌いだというものがある。強制していることに問題がある。存在は知らせないといけないけど、それを本当に愛する人だけでやるやり方がある。
 また、エコーチェンバー現象。類友。自分の知り合いでフィリピン大学の人がいるが、福田先生の話したような状況とはだいぶ違う。それぞれ自分に似たひとしか見えない。福田先生への反論として、納税者は別に古典を読みたいと思っていない。自分の周りにいる空間と統計空間が一致している人はほとんどいない。自分の周りだけ見ると自分と似た考えの方が多数に見える。
 その中で、何を最大値にしていくか。どうコンセンサスとっていくか。古典において難しいものなのでは。

  • 前田氏

 三角関数の公式について。古文漢文と並んで、要らないとされがちなもの。自分も覚えなくていいと思う。それの代わりにオイラーの公式*4、これ一つ知っていると全部出せる。
 博士の愛した数式。「アイはむなしいが愛情によって実のあるものになる」。聖書の言葉「光あれ」を公式で表すというネタもある。医学書が漢文で書かれているという話があったが、公式で書いて喜ぶのは一部のマニアックな人。医学書でも、読まなくちゃいけないものではないのでは。

  • 渡辺氏

 自分の経験から。ある日、手が動かなくなった。脳梗塞かと思って病院に行ったら、なんだか分からないと言われた。他の医者に行ったら橈骨神経麻痺、脇の下の神経が切れて動かないものだとのこと。医者の心得とは患者の愁訴に応えること。直すことではないという。素晴らしいと思った。で聞いたら、「実は私古今和歌集に興味がある」という。やはり興味関心がある人は人間として優れている*5生命科学、死生学という学問。人間はいつ死ぬのか。医学者には答えられない。

  • 福田氏

 先ほどは文学部の立場で書いたが、前職が教育学部。今回のようなことは同僚からも問い詰められたことがある。一般的なデータは分からないが、大学生が10人いれば、古典が好きなのは2人くらい、5人位は憎んでいる、残りはどうでもいい。ところが高校までに一切習わなかったとしたら?まったく習ってないにも関わらず好き、嫌いという人間も何人かいるだろう。
 どうやって我々は教えていくのか。嫌いと言っている人間をどうでもいい、どうでもいいと言っている人間を好きに変えていくのは目指すべきことなのか。それとも抜本的に変えていくべきなのか。あなたたちは教師になるまでに考えなさい、と学生に言う。人がなんといおうとも、自分はこういうことで教えるのだというのを考えておかないと教員採用受けても仕方ないよ、と。

  • 飯倉氏

 これからディスカッション。論点が拡散しないように、平行線にならないようにしてくれとSNSでも言われている。難しい注文。
 猿倉先生が言っていた、高校の古典で古文漢文を必修にする必要はないのではないか、という提言。それに付随して、大学における古典教育、古典研究は、現在の大学の中の位置づけとしてもっと減らしてもいいのではないかといった問題に展開。そこらへんが論点になると思う。

 また、古典をどう定義するか。これは前田先生が定義してくださったところで議論できると思う。基本コースとしては、否定派の論理をどのように肯定派が受け止めるのかということを軸にしていく。

 (パネリストで発言希望がなかったので)フリーディスカッションはカットしてフロア意見を聴く。やはり全体としては肯定派が多いが、まずは否定派の意見を受け止めるということで、指名する。

  • フロア*6

 否定派の方々が仰っているのは古典自体を否定しているのではなく、あくまで優先度。お二人が議論する能力が必要と言ったのにいは同意。また政治家の誤解を招く発言等があるが、自分の意見を誤解されないように伝える、論理的に反論する能力は全員に必要。その優先度として考えた時に、古典が何故必要か。優先度という観点で聞きたい。

  • 飯倉氏

全否定ではなく、限られた時間の中で古文漢文をどうするか。

  • 福田氏

優先度という言葉がよく出る。今現在の国語教育において、現代語のリテラシー教育というのは古文漢文より時間が少ないということか。

  • フロア

現状のカリキュラムは良く知らないが。 

  • 福田氏

高校生が学ぶ他の科目も含め、古文漢文の占有率が不必要に高いということか。あるいは割合としては適切だけれど、カリキュラムマネージメントがまずいからうまくいっていないということか?

  • フロア

前者。 

  • 福田氏

冒頭で勝又先生が触れたことだが、平成31年度の指導要領改訂において古文漢文は危機感を感じるくらい減った。減ったものを見ても、それでも多いというのであれば、もう少しきめ細かい議論をしたい。たとえば最初の一年だけ学習するとか。

  • フロア

では削減される中で、削減されるものよりも古文漢文が大事か。議論、プレゼン能力よりもなぜ古典を学ぶ方が重要なのか。

  • 渡辺氏

授業で歌合せをやってみている。歌を出して批判し合う。相手のグループは絶対けなす、自分のグループは絶対褒める。そういうのを一度やらないと、いきなり議論として振っても委縮してできない。教室というのは既に演じる場。古典というのは、心を預けるという作業が一回入る。活かすことのできる対象。
実用的というのは今度の新指導要領でも強調。実用的なものというのは目的的。ある目的のための実用。現実的であればあるほど、現実が変われば古びるのも早い。目的に対する現実性が古くなったら、実用的なことばは、目的に奉仕するために一から学び直さないといけない。含みのある、多少ゆるやかな問題に対して考えておくことが必要。
参加感の方が大事。そこで鍛えられたものが現実にストレートに役に立つことはない。一段階抽象化して、内面化する。自らに内面化しないものは身につかない。内面化に関して古典は大事と考えている。

  • 前田氏

実用的なものより古典重視していいのか?という問いに対する答えは二つ。
一つは、芸術科目を選択式にしてほしい。好きな人にとってはもっとやってほしい。音楽美術は、高校では選択式。同様に選択科目であるべきというのが私の意見。
もう一つは、役に立つものという点。物理学、素粒子論というものがある。その講演を聞くと、どの先生も冒頭で「私のやっていることは役に立たない」という。でも役に立たないから要らないといっている訳ではない。それがなぜ古典なんだ、ということに答えないといけない。

  • 猿倉氏

渡辺先生の仰ったところで否定的に思うのは、議論するときのユニバーサルなスキルがある、それは古くならない。

教育関係者なら、自分の学生を外国に連れて行ったときの動きについて思うところがある。最初、英語が下手だからダメなのだと思っていた。そうではなく、議論、プレゼンする文化というのを、感想文しか書いたことが無い。人格を攻撃せずに議論するトレーニングを受けていない。上手な国の人は、立場を入れ替えて議論することを小学校からやっている。企画書、予算書、報告書と並んで、非常に大事な国語能力。俳句や感想文よりも高いプライオリティ。いまの国語は感想文みたいな情緒的な文章ばかりで、自分もそういうものだと思っていた。
英語が下手なのではなくて、議論が下手。国語教育の問題。

  • フロア*7

国語教育の危機という本*8を読んだ。高校教育における古典が本当に必要なのか?という問いについては前田先生と同意見。先生の熱意に左右される。自分が古典好きになった時には、先生の熱意で国性爺合戦*9をやってくれたりした。

  • 飯倉氏

高校教育における古典は芸術科目にしてはどうかという提案について。現在は国語総合という科目の中で必修になっており、これは事実上高校1年生が学ぶ科目。2-3年生が習う方のは選択になっている。しかし受験で出てくるために、選択だが事実上は学ぶ人が多い。

次の指導要領では現代の国語と、言語文化が必修。後者の中で現在の古文をどのような形で教えるか。少なくなる方向にはある。黙っていても否定派の意見のようになっていく。ともあれ、その話題についてはいったん切る。次に否定派の方どうぞ。

  • フロア

せっかく否定派と肯定派と話を聞いたのに議論がうまくかみ合ってないと思っていたが、渡辺先生のスライドで出てきた「主体的に幸せになる知恵」という話と、猿倉先生の話で出てきた生涯年収というキーワード。高校生3年間のリソースの中で、幸せというのが重なるところかと思った。幸せとは何か、可視化してみろというのが否定派に求められている結論に近いもの。

自分がハンドアウト見ていたら、猿倉先生のスライドでも「出る杭を打つ」「餅は餅屋」「○○すべし」といった、古典に由来しそうな表現が出てくる。古典を学ばなかったと言いながら慣用句、古文漢文が出てくる。中国の人に話をするときは降雨と劉邦の話をすると喜ぶ。
優先度という時にはなにかの物差しがあって、その物差しに当てはめるといい。とか。KPI*10とか、可視化できるような何か。幸福、平和への貢献度など。

  • 渡辺氏

幸福度を測る調査をしたいのだが、それはどういう基準で考えたらいいでしょうね
という時に伴うべき学問。測ることができない。

  • フロア

Twitterで使われているやまとことばを抜き出して、その根っこをたぐっていくと古典にある、なんてことがあるかも。自分たちの使っている言葉やレトリック、ヤフーのニュースタイトルの五七五でさえ。それが見えるとよい。

  • 渡辺氏

それは面白い発想。連歌だと歌語事典というのがあるが、それは指標を測るメモリだったのかも。言葉が複雑に連想の中で絡み合っている。発想の在り方を客観的にとらえられないか。

  • 福田氏

幸せというのが曖昧だが、言葉を多く持つことが幸せにつながるという考え方もできる。相手を攻撃せずに自分の考えを伝えることができるのが幸福だとしたら、古典の世界はその言葉をこれまで広げてきて、SNSでの発信にもそういう表現がある。年齢差、出身差、男女差がありながらも、言語文化の基本的な考え方がそこに帰結してしまう。

ただやはり曖昧な話で、多様な言葉を多様に使えるということだけで幸福を語っていいのかには抵抗がある。

  • 猿倉氏

たしかに幸福という言葉でかみ合う。どういうものにプロジェクションするか。目的とするものは何なのか。
たとえば、数学では行列が数年前から消えてしまった。行列というのは物理数学の基礎だけでなく、インフォメーションサイエンスで大事なのに、ここを削るなよと怒っている。科目の縦の壁がなければ、行列、古典文法、英会話、日本語のプレゼンのうち、どれを削るかという話になる
幸せというのは何で計るか。国の生産量、競争力にしか個人の幸せというのは射影できない。科目の評価は大変。評価の最適化のアルゴリズムと検証法を作るのが教育そのもの。前田先生と私で実は同じ方法を言っている。教育は国家百年の計というが、自分が生きている間にこの項目は要らなかった、習っていないけれど教えてほしかったというものを洗い出して改革していかないと。日本は他国に比べて圧倒的に遅い。
数学の先生たちは「行列を削るくらいなら古典文法を削れ」と言うべきだった。言えない。縦割りだから。行列が消える時に、その他のユーザの意見を聞かずに譲歩してしまった。行列を教える大学等の関係者は、無くなってもいいかどうかということを聞かされなかった。

その意味では、国語教育に関わる団体は機能している。古典を教えるべきという主張を通せているのだから。この点では理系でもいろいろ。数学は駄目。化学はそこそこ強い。地学は駄目。
科目の壁を取り払ってアルゴリズムの調査を誰かがやらないといけない。文科省の人はやりたくない。これをやる人は、教育コミュニティの序列を抜けて飛び出すことができる。

  • 前田氏

「すべし」というのは、もとは古語かもしれないが、国語辞典に載っている。なので現代語だと思う。「矛盾」も。 

  • フロア

シオランという哲学者がいて「祖国とは国語だ」と言い切っている。国語といった瞬間、振り返ってみると先人たちの積み上げの上に立っている。Wikipediaで死んだ言葉と検索するとたくさんある。日本人が日本語を消そうとするのはやはりまずいと思う。
限られた時間の中で優先度の話。理系だと「虚数の情緒*11」という本もある。理系の人からすると古典をやってこなかったからよく分からない、文系だとオイラーが分からない。両方の理解のために幸福度という尺度が考えられる。 

  • フロア

古典を学ぶにあたって、古典の文法や知識が必要かどうか。現代語訳で古典を教えることは不可能なのかどうか。今後、将来的に古文を生活の糧として使っていく方は減る。本人がその道を志すという意志を固めた大学以降ならば古文で教える必要があるかもしれないが、高校生に古典を教える時においては現代語訳でいいのでは、という提案。

  • フロア

中高で古典を教えている。現代語訳で教えられないかという声は学校でもよく言われる。古典を学ぶ意味は他者との出会い。他者といえば英語のような外国文化もそうだが、古典は自分につながっている他者。

  • フロア

古典は現代語とはまったく別の言語ということであれば、他者との邂逅という意味があるが、現代語で教えるとなにか問題が生じるのか?たとえば明治に書かれた本のほとんどは、文語体で読んでいる人は少ないのでは。

  • フロア

何故原文がいいか。古典の文章は、連想と記憶によって作られている。訳すると無理が出る。連想と記憶によって作られた他者の思想を理解するということで意味がある。現代語訳が側にあってもいいが、原文でないといけない。

  • 猿倉氏

言葉の数が多い方がいいかどうか。最近の米語は50年間ですごく少なくなってきた。多様化して、簡単なことばを話さないと選挙に勝てない。日本にも外国の人が多くなってきたから、日本語は政策として意図的に簡単にすべき。語彙は減らすべき。

ナショナリズム愛国心、いい意味の愛国心というのは作れると思う。それが芸術。現代的なポリコレの観点からいうと、ほとんどの古典はNG。選んだもの、アートを見せていく。いい意味の愛国心は押し付けられないので、フォロワーを作るより反発者を作る方が多い教育に今の古典教育はなっている。せっかく売れるコンテンツなのにアピールできない。悔しいことにそこはヨーロッパとの違い。日本は日本のいいところを、教育においても外国人に見せることができない。歪んだ教育をやっているからアゲインストの人たちを結構作っている。

  • 飯倉氏

ポリコレの問題が出たが、古い道徳や古い倫理観を古典が無意識に刷り込んでいるのでは、というのが猿倉さんの主張。これに関して意見のある人は。

  • フロア

古典は、良いか悪いかは別として平安時代中心。作者が女性であり、かつてこのように女性が光っていたという話ができる。身分秩序の話。和歌の中には敬語は出てこない、帝であろうが女性であろうが相手には君と呼びかける、ということはある。いずれもディスプレイの仕方。

  • 飯倉氏

他に補足、意見は。

  • フロア

現代語訳では駄目かという話。最近だと「謙虚さ」という言葉を巡って日韓のニュアンスの違いで揉めたが、翻訳するとニュアンスが違ってしまうということ。高校教育だとその体験を日本語と英語でしか考えられない。日本語と英語だけでなく古典という、三つを考えることで言語体験ができる。
また、留学生、労働者が足元にたくさん来ている。その時に、教育の対象は誰なのか。世界で勝てるビジネスマンやディスカッション能力というのは、基本的にホワイトカラーしか想定していない。大学進学しない40数パーセントの人がいる。多文化化している現代社会において、異なる他者に対してどう共感するか、どう想像するか。自分たちにとって古典がこのようにルーツであるならば、この人たちもそのようであろうと考えること。40数パーセントのブルーカラーの労働者、外国ルーツの子どもを視野に入れたときに考えることは。

  • 前田氏

翻訳するとニュアンスの違いがあるという件、その例に関して言えば代わっているのは言葉の意味ではなくそれぞれのポジション。謙虚さという言葉の意味は同じ。
外国の人が来て、その背景を知るべきというのはそのとおり。歴史的なことを学ぶと同時に海外の歴史的なことも学ぶべき。学ぶべきだが、それが古文で書かれた古典でなければならないというところに論理のギャップがある。現代文で「過去にこういうことがあった」で十分。
意味が変わってくるということはある。原文は短いけれど翻訳文は長くなる。長くして、誤解が起きないようにするという方法も。

  • 飯倉氏

まだ質問したい人大勢いるが、ここから挙手に。

  • フロア

高校で国語を教えている。いま勤務している高校は、先のご意見にあったように、ほとんど大学進学しない。専門学校等が多い。古典を私は好きだが、果たして必要だろうか。必修であるより選択である方が好ましいのでは…という気になってきた。
現在勤めている学校でも、実際選択科目になっている。学生は、枕草子が「まくらのくさこ」だと思っている人がいるくらい。それでもたとえば六条御息所の話をすると、共感、反発する女子がたくさんいる。猫まただと思った話*12を聞くと、勉強が得意でない子でも笑う。

そういう話ができるのは古典くらい。現代語訳でそういう話を持ち出してもいいが、たまに「たり」「けり」の違いを説明すると納得する。納得したな、という経験をできるのは言語が違うことの面白さ。必修でなく選択であった方がいいという意見はそうかと思ったが、広く触れる機会を残しておいてほしい。

  • フロア

大学学部で教育学専攻している。古文の内容としていろいろ効用が出ているが、それだけだと否定派の意見が強い。古典文法の方に意義がある。
水曜日のダウンタウン」という番組で、「絵描き歌は完成形を知っていないと描けない」という説をやっていた。絵描き歌の完成形にあたるのが古典文法。「お」「う」の長音の違い、表記の違い等、古典文法を知れば理解できる。意義はあるのでは。

  • 前田氏

英単語を覚える時にラテン語を知っていると覚えやすいというメリットがあるが、そうでないと覚えられないかというとそうではない。古典文法でなくても、現代語を正しく使いましょう、という教え方でもよい。

  • フロア

暗記するだけでなく、それがどういう枠組み、構造の中にあるかを知ること。

  • 前田氏

言語は生き物なので、そういう法則が当てはまるとは限らない。例外がたくさんある。

  • フロア

自分はアンケートは「古典は必要」で出したが、かなりきつい条件を伴う。
古典といえども、人文科学の中。リベラルアーツ。これの主たる目的は人間関係について学ぶこと。若い理工系の方は人間関係に関心を持たない、特殊分野のギークになっている方がいる。やはり社会の中の一員として考える時には、人文科学で教えられるような人間関係を学ぶ機会が必要。古典もそれを学ぶのに役立ちうるだろう、という条件で私は賛成している。
これまでの議論だと専門的な話になっているが、それだと古典を学ぶこと自体がギークになってしまう。

  • 猿倉氏

私のスライドで、日本語の人文学全般が微妙だといっている。結局、人文学をやっている人のための人文学になっている。人文学をやっていない人たちが世の中の99%。その人たち目線になっていないので負の教育になっている。

理系の学部生のための社会学、国際関係論をアレンジしてみたい。世界史日本史はまず理系の学生は受けない。哲学も宗教も何も学んでいない。これは危険。カルトにはまる人も出る。
なぜそうなるか、高校以前、教養相当以前の人文学が、自分たちのための人文学になっているから。受ける人の役に立つものにまったくなっていない。これだと、外の人から見たときにはこんなものいらないや、となる。
文学部は微妙だけど、言わば応用人文学と考えている人間科学の人はインターフェイスされている。理系で理学と応用科学があるように、文系も理学と応用科学的なものに分けて、ユーザーは誰か、出口はどこかと考えていかないと、一部の天才以外は要らないよと思われてしまう。

  • 福田氏

高校生で文系理系と分けるが、本当に我々が大人として、そこで分けた方が幸せになれると思っているならともかく、自分の学校が入試で合格しやすいように、入試制度のためだけにやっていることではないか。
理系に分けたところには、理系の古典の授業があってもいいのでは。

  • 猿倉氏

古典のコンテンツの考え方は偏っているから、西洋の哲学等とも並べて教えるのであればいい。

  • 福田氏

高校生で理系のクラスを作る、そこに西洋哲学等も入れるなら、日本古典も入り続ける?

  • 猿倉氏

高校生はコンパクトに概論で教えるべき。理系の教養相当の科目で、理系全般に必要なビジネスのための社会学をユーザー目線で設定すべき。自分のところの比較的出来のよい学生集団を見ていても、たとえば海外の人と接する時、文化的に気を付けなければならないことをいちいち言うのは非常に疲れる。それは本来、高校までの人文学教育がまともであれば言う必要のないこと。高校までの社会科、人文学の先生というのは、そういう知識を持ったひとがどういう現場でそれを使っているか多分見ていない。
意外なことに理系の人たちは、外国人と接するので、文化的インタフェースが非常に大事。日本文化のセールスマンとしての彼らの層は凄く大きいが、文学的な知識もないし、日本文化のセールスもできない。今の日本の人文学の現状を見ると、理系の人がこういう知識をほしいとカスタマイズしない限り、そういうプロダクトは出てこない。

  • 福田氏

では提案。新しく変わる学習指導要領に、選択で古典というのがある。私が教えているのは、高校以降古典に触れないような人向けを教えている。
先生の提案するような古典の教科書を作るとしたら、このメンバーで作るのは可能?

  • 前田氏

自由度というのは重要なキーワード。大学に入ると必修科目は少ない。高校ではまだ必修が多い、選択を多くするのがよい。
社会学社会学と理系の学科は関係ないと思っている人多いかもしれないが、たとえばピケティの「21世紀の資本*13」で、0.5%の人が社会の富の90%を持つ*14という話が出てくる。これは本来物理学の法則で、ボルツマン分布*15*16。放っておいたらそうなるというのは当たり前。社会学には社会学の法則があると思って見ていると、時代遅れになりかねない。

  • フロア

高校の古典教育は必修にすべきか。高校まではほとんど義務教育になっている。ひととおりのことは自国の文化に触れておくという経験をさせておきたい。古典が無駄ならともかく、有害と言われるのは納得できない。確かに古典の中には、現代の価値観と合わないものもあるが、そういう負の遺産もあったということを知っておく。
否定派の方で、高等教育を効率化ではかることの危険性。PDCA*17は予定調和でしかない。そこから外れるような偶然性が必要。科学の発達にも。その中での人文学、古典の意義をとらえなおす意味もある。

  • フロア

質問が二つ。古典教育というのが中高では追いやられていて、大学では教養の方に追いやられている、古典が追いやられているという現状について肯定派の方々に聞きたい。

二つめ、否定派の方に聞きたい。議論のリテラシーを学ばせるという話があったが、国語ではなく、数学とか社会とか理科でも学べるのでは。なぜ国語でやろうとするのか。理数科目によるリテラシー教育は如何。

  • フロア

文系理系の分離と大学入試の問題について。猿倉先生の資料の7ページ、これは落としてはいけない議論だが、「7-9割の落ちこぼれを作っても、役に立つ人がいれば社会的役割は還元できる」という理論。これはかつて三浦朱門が言っていた理屈で、現在ゆとり教育と言われているものの元々の目的。それが20年前に議論された時、国語は国語総合になった。まず現国と古典を分離せずなんとかしようとしたもの。

実際は、文科省が打ち出したにも関わらず、現場ではそのようにならなかった。失敗している。なぜなら、すべてエリートの理論だったから。現状は、古典に触れない高校生がいる。また古典Aは現代語で教えていいと指導要領に書いてあり、現代語で教えている学校はそれなりにある。
そもそも教員免許というのが戦後教育で作られたもの。国語の免許をとった人が国語を再生産してきた。国語は必要なのか?国語教師がその問に誠実に答えてきたのか。教科という枠組み自体が、制度疲労を起こしてきている。その中で古典だけ取り出して話をしているからかみ合わない。芸術科目にできるのかどうか。現実的にどこまで考えているかどうか。

  • 飯倉氏

パネリスト一人ずつに、まとめも含め発言してもらう。

  • 猿倉氏

まず、ゆとり教育は肯定していない。理系の人が少ないので、古典が誰にどう役に立つかという分布関数は文系とかなり違っている。

高校の理系教科は、上位3割にフォーカスした指導要領にすべてしてしまっていいのでは、と思う。上のクオリティを落とすと国の競争力は確実に落ちる。
古典を教えることに関してやさしさが発生する、というのは違う。ポリコレとは受け取り方。教科書に載っているものは教化する。ポリコレからずれたものは排除しなければならない。
たとえば外国人や女性というキーワードで押しているが、自分の中でもどうしてもそれを信じていない部分がある。儒教的背景の刷り込みが結構あったから。

  • 前田氏

理系文系は、役割分担をしなくてはいけないという理由で分けている。同じ理由で、両者をつなぐ役割の人も必要。

リテラシーを他学科でやる話、国語は言語を教えるものなので言語という意味で期待したい。

古典を教える良し悪しは、一律ではなく、内容で判断。
国語が必要か。国語は必要。言語なのでリテラシーに関わるものは必要。
芸術。リテラシーのところは必修にして、美しさを楽しむところは芸術にしてほしい。

 

  • 渡辺氏

理系の方が世界に対して自国の文化を語らねばならないという話。私も学生によく言う。みんな世界に行ってきてくれ、そうするとその時日本のことを聞かれるから知っておかねば、と。世界で活躍してきてほしい。
古典文法について。先生方に言いたいが、文法のための文法はやめましょう。ただし、本当に面白い。言葉に規則がある。しかもその大本のもの。
現代語訳も使っていいが、和歌は言葉のしらべに触れる機会は作ってほしい。
古典は、はっきり言うと中世以前の古典は信仰。宗教と無縁の古典はない。それを我々は切り離しすぎている。日本人には信仰が薄いといいながら、我々にとっては祈りや救いに関わっているもの。

  • 福田

芸術になるかどうか、私の立場だけ申し上げる。今回の場で一番発言してほしかったのは、音楽と美術の先生。実はかつては芸術の時間はもっとたくさんあった。他の科目が必要必要といっているうちに割を喰った。では本当に音楽美術体育は必要だったのか、という議論をしていかなければならない。

  • 飯倉

今日は我々文系の集まり、文学部の催しに慣れている者にとっては、考えたこともないような論点や考え方を教えてもらって、それについて一生懸命考えなければならない。それを受け止めて、それなりに、集まる前よりも後の方が、皆の中に今後こうしていけばいいというヒントを与えていただけたのではないか。

この会は無駄ではなかった、もしかすると有益だったかもしれない。それは今後どういうふうに我々が受け止めて進めていくか。

 

メモは以上。まとめるにあたって動画の再視聴などはしていないが、くたびれた。自分の感想はそのうち書く、かも。

*1:古典は本当に必要なのか(明星大学日本文化学科シンポジウム) - YouTube

*2:#古典は本当に必要なのか:開始前に漲る期待と緊張 - Togetter古典は本当に必要なのか?第一部(前半)のお話 - Togetter古典は本当に必要なのか?第二部ツィートまとめ - Togetter

*3:挙手状況は、中継ではよく分からず。

*4:オイラーの公式 - Wikipedia

*5:これはネタな感じ。

*6:以下、名前や所属を名乗っている人もいたが、ここでは登壇者以外すべて「フロア」に統一

*7:この発言の時は音声が良くなかったり、理解がついていけなくてほとんどメモできなかった。

*8:国語教育の危機――大学入学共通テストと新学習指導要領 (ちくま新書)

*9:国性爺合戦 - Wikipedia

*10:KPIとは - コトバンク

*11:虚数の情緒―中学生からの全方位独学法

*12:おそらく徒然草第八十九段

*13:21世紀の資本

*14:ここの数字は正確に聞き取れなかったので適当。ちゃんと知りたい人は『21世紀の資本』を読むといいよ。

*15:ボルツマン分布 - Wikipedia

*16:2019/1/17追記:登壇者と思われる方から補足をいただいた。コメント欄参照。

*17:PDCAサイクル - Wikipedia