明星大学日本文化学科公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」を聴いた。~前篇

こういうのを聴いた。

明星大学日本文化学科公開シンポジウム「古典は本当に必要なのか」2019年1月14日(月・祝)

【パネリスト】猿倉信彦(某旧帝国大学 某研究所 教授)、前田賢一(某大手電機メーカー OB)、渡部泰明(東京大学 教授)、福田安典(日本女子大学 教授)

【ディスカッション司会)飯倉洋一大阪大学 教授)
【コーディネーター)勝又基(明星大学) 

「行ってきた」じゃなくて、今回はネット中継を聴いた*1。面白かったので頭の整理用にメモをとった。以下はxiao-2の聞きとれた/理解できた/書き留められた/覚えていた範囲。敬称は略。論理が飛んだり意味不明なところはだいたいxiao-2の能力不足なので、ちゃんと知りたい人はここから先は見ずに、動画のタイムシフト*2とか、Twitterまとめ*3を見るといいよ。

 

 最初に本シンポジウムの趣旨。
 古典研究、教育は危機に瀕している。雑誌の廃刊、学会の高齢化、入試改革で古典が外れるなど。四半世紀前からは想像できない状況。一方、古典研究の意義を訴える書物やシンポジウムも多く現れた。しかし多くは守る側の論理を一方的に振り回したもの。理系、経済、行政の人たちにその言葉は有効な反論たりえたか。その声は届いたか。

 いま求められるのは、古典不要と考える人の声に耳を傾け、逃げずに真摯に反論すること。SNS上では対決的議論は多いが、しかし多くは自称成功者による一方的な発言。感情交じりに投げ返しても発展的でない。そこで今回、古典否定派を自称してはばからない、大学と企業の研究者を招いた。お二人の言葉に耳を傾け、ここで議論を深めよう。

 多様な論点がある。あなたの人生に必要かどうか。多様な価値が生まれている時代、なお古典は必修か。地方国立大学にとって必要か。不要とされがちな、理系基礎科学の研究者なら理解できるのだろうか。グローバル人材が重要視されている中で日本の古典を学ぶ価値とは。会場には多様な人が来ている。それぞれの立場から多様な指摘がなされることを期待。
 今回の議論は、大げさでなく、古典がある側面において終わるきっかけになるかもしれない、あるいは日本の古典が踏み出すきっかけになるかもしれない。すべてはこれからの議論。

 (このあと、プログラムの説明とパネリストの紹介。第1部と第2部の間の休憩で中間アンケートをとり、それをもとに第2部のディスカッションを進めるという構成)最後に、これから三時間半の議論でいくつか注意点。議論は紳士的に*4

 

  • 猿倉信彦(某旧帝国大学 某研究所 教授)「現代を生きるのに必要度の低い教養である古典を高校生に教えるのは即刻やめるべき」

 高校生に古典教育は必要か?高校の必修科目として要るかどうか、という意味合い。結論としては私は不要と思う。もっと学ぶべきことが高校生にはあるからやめてほしい。日本の社会の発展の妨げになっている要素が大きい。国際競争力という観点から、現代において必要なものに対する接続が薄い。

 今回、このシンポジウムを引き受けた動機。今まではいろんな評価や日本の状況について、縦割りでよその話だと思っていた。が、餅を餅屋に任せていたら平成30年間で大変なことに。教育改革も進んでいない。学術的にも、日本の国際評価は低い。古典は教養と言われるが、そういうことを言う人が必要であるとする教養が必要な場面がなかった。…と言っていたところへ、こういう話がきたので世直しの一環として。

 自分の履歴(詳細は割愛)。55歳。富山の田舎で生まれたので、都会のセンスでいうと60越え。時代背景を言っておかないといけない。比較的田舎の、わりとトラッドな家で。学校教師の家庭。それなりに日本の文化には親しんできた。ちょうど計算機カシオミニが出だした頃で、そろばんをやっていたけど、もういいや、となった。万博でアポロを見て感動。
 高校が古典嫌いの始まり。そこそこ有名な先生だったが意見合わず。でも共通一次には古典がある。仕方なく勉強。当時はドイツ語が大学の入学試験にあった。それも結果として不要。字を綺麗に書けといわれたが、ワープロの登場で綺麗に書かなくてよくなった。その後、たまたまタイミングがよくて国立大学でいろいろやっている。がちがちの文化否定論者という訳ではない。美術鑑賞は趣味。
 大学で留学生教育にも関わっている。外国人が日本で生き残っていくためには日本語インターフェースが必要。そういうひとのための教育。専門でやっていることは、光と物質の間。エンジニアリングとサイエンスの間。

 教育というのは大学・高校でどうあるべきか。出資者は国とご家族。国への還元はGDPか競争力、個人への還元は収入か自己実現。高校生の時間は有限。優先順位の高いものからやるべき。大学は少子化の中で危機。ありようが違ってきている。
アジアの若者と比べると、日本の若者は戦える状態にない。急速に建て直さないと負ける。教育はあったほうがいいのではなく、なければいけないものであるというところに立ち返る必要。
 18歳人口はピークの時のほぼ半分。自由競争に任せていると半分くらいの大学がつぶれる可能性がある。文科省の政策によれば、一言でまとめると国立は理系重視、文系は私大にするぞという考え方。QSランキング*5は留学生を集めるのに大事。現実的には、大学はカテゴリ分けされる。国力のために戦う大学と、ビジネスの大学。どういう人を創りたいか考える時、ミッションの再定義ができていない。GAFA*6のような新しい産業を作れる人。(この前後、鈴木寛氏による論説をいくつか紹介*7。)日本は不景気なのにアメリカの景気がいいのは、新しいスタートアップが生まれてくるから。日本もできるようにしなくてはいけない。

 1.人口の激減。2.国際化の進行。3.日本の競争力の低下。国際化という意味は、電話や飛行機運賃が安くなった。行き来が容易に。昭和時代には日本は実質的鎖国だったと言えるが、そうでなくなった。教育の能率化しないと日本は貧乏になる。
昭和の時代は年功序列、終身雇用、男女雇用不均衡が当たり前。それを当たり前と感じた時代からはずいぶん変化。世界に繋がった日本、に、嫌でもなってしまう。その時に何が必要か。
 いま日本は、比較的シニアな人の層で持っている。もっと若い世代になると、人口的に戦ったときに持たない。日本人の英語力は世界でもかなり低い方。女性の社会貢献度も120位。労働生産力の低下。親の世代より悪い生活を歩みだす最初の世代になる。平均年齢をフィリピンと比べると、フィリピンは25歳、日本は45歳。人口が1億いてもほとんどが高齢者。

 そういうことを考えると、教育改革は待ったなし。高校生はもっと役に立つ学ぶべきことがあるはず。国語でいえば、企画書の作り方、発表、議論。短歌とか読めるよりいいのでは。英語力不足というのは発表下手、議論下手によるものでもある。

 ポリコレ*8のセンスの障害。年功序列や男女差別の概念。日本の映画がアメリカで上映できなかったり、コンテクスト選ぶ。日本の古典は、多くはポリコレに反している。結構リベラルだと思う人でも、年下、女性、外国人(アジア系)の上司ができたり、自分の配偶者が自分より出世すると嫌な気持ちになったりする。これは古典教育、儒教的マインドの弊害。

 どうすればいいか。哲学の部分には、一部悪くない概念がある。哲学は現代社会に持っていって、情緒的な古典は芸術科目として選択するのがよい。まったく触れないのはもったいないので、副読本として与えて興味のある人が見る。あるいはビジネスとして、大学のコスパのいい学術としては悪くない。そういうのはいい。
 また、外国に対してのコンテンツビジネスという視点はある。そのディスプレイの仕方を考える。日本の図工や美術の教科書は配っておくだけで説明しないが、それにより有名な作品を目にすることができたりする。

 高校教育の問題点。数学で行列を扱わなくなった。これが決まった時、関係者はほとんど知らなかった。縦割りがひどい。大学入試の改革はきわめて難しい。科目、配点なども。ちゃんと意見交換と検証できるようにしたい。

 各科目の単元を1時間なにか削って教えるとした時に、どれを教えたらその子の生涯収入が上がるか。古典文法か、行列か、英語か、その他か?たくさんの疑問。教育の中では、無くなってしまったものは色々ある。そろばんや習字もそう。これらと古典は何が違うのか、考えておいたほうがいい。

  • 前田賢一(某大手電機メーカー OB)「古文・漢文より国語リテラシー

 まず、古典とは何か。言葉を定義してから使いたい。古典はクラシックだが、日本の国語の中における古典はいわゆる古文漢文だが、ここでは、過去に表現された立派な内容、と定義。源氏物語もだが、プリンキピア、ベートーヴェンの第五楽章も、ミロのビーナスも含む。一方、古文というのは、古典が書かれた言語。日本の古文もだが、漢文、ギリシャ語、ラテン語も含む。

 私の主張は、古典というのは、内容で評価しましょう。内容というのは古い言葉であらわさなくても、現代文で表せば十分。高校以降の古文漢文は選択制にしよう。

 古文のファンの方には古文がないと古い文化は理解できないと言われる。本当だろうか。一面の真理はある。古文でないと分からない微妙なニュアンスはある。しかしそれを知る必要がある人は誰か?
 我々は古典の理系の文献、ニュートンなども読むが、原著で読むことはない。歴史の研究をする人には重要だが、理系の現状としては現代語訳で十分。古文漢文が必要というなら、それが必要なのは誰かということを問わなくてはならない。もし本当に原文が必須だというなら、ギリシャ語も知らなくてはいけない。ノーベル文学賞を外国人が取れる。現代語でも翻訳でも優れた内容は伝わる。

 たとえば、源氏物語の桐壷巻の冒頭。原文くずし字の画像と、現代語訳を並べる。現代語訳の方がずいぶん長い。もとの文のニュアンスがあるからで、もとの文で見た方がいいことはあることはあるだろう。しかし、それが必要なのは誰か。
 一方で、ニュートンのプリンキピアの表紙を画像で出す。これはラテン語。日本の古い文献が漢文で書かれたことと同じ。英語訳も並べたが、同様にラテン語訳の方がちょっと短い。ラテン語で読んだ方がいいことはあるが、だからといってラテン語を勉強するか。辞書使ってみたがすぐ投了。結局、日本語で書かれた教科書を読んで理解した。

 逆の質問をしてみたい。古文でないと伝わらないものがあるというなら、古文を勉強すれば伝わるのか。結論としては、伝わるものも伝わらないものもある。古文漢文なら、甲骨文字までさかのぼらなくていいのか。我々がものを見たり聞いたりして理解するとはどういうことか。頭の中に対象のモデルを作ること。立派なモデルなら正しい理解、しょぼいモデルではいい加減な理解。
 たとえば、バカとアホという言葉がある。同じか?関東人が関西に行ってアホと言われると、バカとは違う感じを受ける。私が見ている赤色と、あなたが見ている赤色は同じか。誰かは流血の色を見て怖いなと思った、誰かは恋人の赤い服をみていいなと思う。私が聞いた「バカ」のニュアンスと、あなたが聞いたニュアンスが同じかどうかは分からない。別の例として、ハムと聞いてなにを思い出すか?日本人の多くはソーセージ。英国人はハムエッグのイメージで卵を思い出す。言葉を聞いた時に頭の中で起こっている処理。
 人工知能の研究で分かってきたことは、頭の中で何かを考える時、意識に上らない処理はその何十倍、何百倍されているということ。言葉だけ同じで辞書に書いてあっても、始まらない。もしかすると源氏物語に出てくる言い方を聞いて、それが本当はどういう意味なのかは平安時代に戻らないと分からないのではないか。

 古文を知らないと教養がない、一流でない、という言い方もされる。それでは日本の古典を知らない外国人は全員一流でないのか。古文が大事だという日本人の多くは、ギリシャ語やラテン語ができないが、ヨーロッパ人から見たら一流でない…というわけでもないだろう。アインシュタインは古文(ラテン語)で落第をした。

 古文は教養だという主張もある。教養には色々ある。外国語も教養。漢文よりも現代中国語の方が役に立つとか、オペラを聴くならイタリア語も必要という考え方もある。東大王というクイズ番組あるが、クイズの知識も教養。美術音楽も、量子力学も教養。ケンブリッジ大学のディナーのハイテーブルでは文系の先生が量子力学を論じる。教養はものすごくたくさんある。強いられるものではない。自分がこれはいい、こういう知識を知りたいなと思って学んでいくもの。
 高校生が使える時間は限られている。その中で古文漢文に本当に時間を使っていいのか、という疑問を投げかけたい。

 国語の話題。国語にはリテラシーと芸術の側面がある。最低限のリテラシーとしての国語。外国から来られた学生さんに理解してもらう、それが最低限の日本語。最低限、自分の希望を伝える、相手の希望を理解する。正しい日本語の読み書き理解は、まだ不十分という説もある*9リテラシーの分が不足しているところで、芸術としての国語ばかりが重視されている。文学、芸術としての国語。多くの古文漢文はこれに含まれる。教科書に出てくる現代文も文学的なものが多い。たとえば文学の書き方を、予算書には使えない。

 誤解がなく伝わるような書き方をリテラシーとして教えてほしい。新聞の論説を見て、主張として何を言っているか、反対意見をまとめる力。会社に入ればビジネス上のメールの書き方。お客様と予算、仕様の話正しく伝えられるか。議事の進め方。議論、プレゼンのやり方。提案書、報告書、論文の書き方。論文は大学で先生が教えてくれるが、高校卒業した学生は知らない。教えてほしい。誤解のない文章の作り方。

 日本語は論理的でないといわれるが、ちょっと例示。「AはBである」は、「A=B」ではない。論理的にはそういう意味になる。たとえば「熊本県人は我慢強い」は、すべてではない、我慢強くない熊本県人もいれば、他の県にも我慢強い人はいる。論理的に一対一ではない言い方をしている。リテラシーとしての国語を教える必要。

 ただ、中学までには古典も含め全部習っていてもいいと思う。そこで出会わないと一生触れないままになるかもしれないから、カタログ的な意味で触れておくのはよい。高校以降は、文学も含めて芸術科目は選択にしてほしい。時間は有限。国語はリテラシーの方を教えてほしい。

 

 私は和歌史をやっている。なぜ和歌か、なぜ和歌は千数百年続いたか。その前提となることだけ言いたい。2点。1.参加型の文芸だったこと。作り手が読み手でもあり、主体的に関わることによってなりたっている。境界型。2.いろいろな文化領域と関わっていたこと。より広い意味の教育、政治的な教化、布教も含めた教育と結びついたこと。

 本題の古典の意義。古典は主体的に、幸せに生きるための知恵を授けるもの。

 自分は小西甚一古文研究法 (ちくま学芸文庫)』を読んだとき「徒然草は60にならないと分からない」と書いてあったことに、実際60過ぎてから納得。そういう時間をかけた学びが昔なら許されたが、今は許されないだろう。学校教育の場で、古典の何が興味深いか、語っていかなければならない。生活の潤いとか、そういう意義は求められていない。

 そこで意義を述べるなら、良い仕事をするために古典は不可欠。1つは指導力。人を指導するには情理を尽くすことが求められる。これがないと人を教え導けない。試験で見られるのは能力だけ、真価はないと学生によく言う。真価を問われるのは人を教え導く時。情理を尽くす、その時に必要なのが古典。ここで古典といっているのは。第二次世界大戦ぐらいまでの小説を含めた古典作品。古典を学ぶことが情理を尽くすこと。

 2つめには、良い仕事には優れた着想がかならず必要ということ。経済界の知人に聞いた話だが、日本の経済はまだ中小企業が支えている。その人たちは金が無いので知恵を出す。それが強み。実際自分の父も零細企業の社長で、いろいろ工夫していた。知恵を出すにはどうやって出すか。心の中にもやもやした状態が現れる、それが大事。それが整理されるときにアイディアが生まれる。心が複雑になって錯綜した状態を母体に生まれる。和歌というのはそのもやもやの作り方がうまい。着想の立て方。古典とはそういう知恵を与えるもの。
 なぜ現代文ではだめか?現代に限らず、古典に値しないものがある。一番基準に置くのは共生を感じさせるもの。現代の新しいものでも共生を感じさせるものなら古典になっていく。

 具体的に挙げる。反論のための反論するつもりではないので、教育に携わる人を念頭にいおく。徒然草の百三十七段。「花は盛りに、月はくまなきをのみ~」という、教科書にも取り上げられる有名な文*10。これは長いので教科書で全文取り上げられることはないのだが、教壇に立っている人は必ず全文取り上げてほしい。現代文では駄目なのか?大いに使っていいと思う。でも原文は必要。ことばに即して物事は考えられるので、ことばを知ることはどうしても必要。
 花は盛りに…という、こういう発想を彼はどこから得たのか?中世から既に彼独自の発想であると評価されている。歌人であった兼好が、歌人としての特色を生かしてこういうアイディアを得たのだろう。兼好には歌集があり、その中に「神無月のころ、初瀬にまうで侍しに…」という文がある。長谷寺に参詣することになったところ、和歌の師である二条為世*11に、紅葉を折ってお土産にしなさいと言われた。これは試験。和歌の先生なので、和歌を詠んでこいということ。ところがせっかく和歌を作ったのに、持って帰る途中で紅葉が散ってしまった。そこで「世にしらず見えし梢は…*12」と読んだら、その言葉の方が素敵ですという返歌があった。先生に褒められた、合格。これを踏まえて徒然草の文を見ると、花が散ったので見どころがないという文あり。歌を詠んで窮地を脱する、諦めていたらピンチこそチャンスというのを味わった。それを経て百三十七段のアイディアにつながったのでは。決まり切った美しさがある、と思い込んでは駄目ということを説く。固定観念の否定。
 第三段であれば、遁世者が見る月の美しさを語る。枝に隠れてあまり見えないのが美しいという。第四段は恋の話、逢えないのがいい。田舎者はひたすらに見ようとする、という。この部分は教科書に載りにくい。そして百三十七段の一番最後は、武士が死地に赴くときに死を覚悟する、遁世者は自然を味わって無常を忘れる、という。ここでいう武士は批判したかに見えた田舎者で、つまり自分の言っていることを最後にひっくり返している。情理を尽くした文章。その中に入ってこそ分かるもの。

 授業活動例。古典に参加する、の例として実際やった授業。五七五で物の名前だけを作らせて、それを再分配して、誰かの作った五七五に七七で感情をくっつけていく。誰のどういうものが当たるかわからない。偶然というものをどう捉えるか、偶然に対してどう自分の心を持っていくか。古典の世界には、それを遊びのようにして教育に用いていた伝統がある。そういう授業をやってもいる。
 心をいったん自分から切り離すということ。悩むのは、自分の心が自分のものであると思っているから。心を自分から切り離す術、これも幸せに生きていく上では必要なもの。その意味でも古典は学びがいがある。

 

  • 福田安典(日本女子大学 教授)「BUNGAKU教育を否定できるならやってみせてよ」

 ほとんどの方は初めてお会いする。自己紹介の後、自分の立ち位置について。それなりに豊かな国の納税者は、その対価として自分の国の文化を知る権利がある。その発掘と発信の仕事が自分の義務と考えている。日本の中高の国語教育に関わる雑誌を編集したりしている。

 学習指導要領が平成31年に大きく変わる*13。古典の割合が減った。既にこのことは分かっていて、高校では古典はどんどん選択になっていく。問題は平成31年度からどうするか。代わりに言語文化というものが入ってくる。文科省の定義によれば、いかにも古典というものではなくて、言語表現。こういう教育を受けてきた子たちを大学で高等教育の場で受け入れるのが我々教員。
 我々世代では、高校で文理を分けることが多かった。この理由は何だろうか。子どもの能力や好みに合わせた方がいいからか、両方を同じカリキュラムで教えるのが難しいからか。あるいは、それとも受験で受かるように効率よく教えるという教える側の都合か。小学校を思い出せば、理科の実験が好きだった本好き、朝顔や昆虫好きな本好きもいたが、そういう人も理系に行くと文系の学習から離れてしまう。
 著書*14を出した後で、理系の読書と文系の読書は違うのか?というトークイベントをした。その中で出てきた議論。漢文で書かれた江戸時代の医学書と文学書の画像を見ると、どちらがどちらか分からない。なぜこんなそっくりなものが生まれるか?という研究をした。医学書のパロディの戯作がとても多い。たとえば似たような漢文だが、片方は医学書、片方は文学書。これは葛根湯の説明。後者は葛根湯の説明をわざわざ漢詩文で狂詩にしたもの。これを片方では真面目に、もう片方では面白がって読んでいたというのが江戸時代。

 また平賀源内の本草学書「物類品隲*15」に「かあいまん*16」の説明がある。これが谷川士清「和訓栞*17」にそのまま引かれている。国学の本の中に、最先端のオランダを勉強していた平賀源内の文章が使われているのは意外なことだが、二人にはつながりがあった。

 自分は国文学に入って、理系学問とは全く関係なく国文学のことを調べたいのだが、「和訓栞」は、医学書本草学の方に目を向けないと使いこなせない。つまり作者と読者にとっては、医学書と文学書の両方を知っている必要がある。そういう時代が近代以前にはあった。お陰で私は理系の教育を受けたことがないにも関わらず、普通の研究者より医学書本草学書をたくさん読む生活をしている。

 その背景として、かつては文系・理系という対立概念が無かった。読む層が共通、読む本が共通。江戸時代に村落のリーダーたるべき人物に求められるのは、農書等の知識のほか、色々な素養。半分以上が漢文で書かれたもの。たとえば『医案類語』という書物では、漢文でカルテを書くための用例集を別に医者ではない儒学者が作っている。

 江戸時代の医学書農学書を読むためには漢文が読める必要があり、書誌学の知識トレーニングが必要。今の時代、どこの学部ならこの学習内容を保証してくれるか?崩し字で書かれたものも翻刻されていない者が多い。発信していくことが義務だとしたら、この字を読むトレーニングさせてくれるところが必要。誰かがその力を身に着けるには、高校までの古文や漢文を含んだ国語科の学習内容が必要。誰が天命*18に目覚めるか分からない、それまでは必要。お陰で最近はお医者さんの前で話すことが多くなった。
 2000年以降、フィリピン大学で日本の古典芸能に関心が高まり、学部が立ち上げられた。日本の古語、型、和楽、作法を学ぶ。謡で、古語を節づけで歌えるので、日本語ができるのかと思ったら話す方は英語しかできなかったりする。彼らにとって何が楽しいのか?フィリピンでは、他国の文化には憧れがあるのに、自国の伝統芸能を軽視する傾向がある。自国の伝統芸能が消えるかもしれないという危機感。
 サンフランシスコ条約から50年が立ったとき、アジアで責任と賠償を求めるデモがあった。フィリピンにも同様の動き。デモがあった時、フィリピンでは日本の伝統芸能をもう一度学ぼうとする動きが起きた。勧進帳を英訳するなど。それまでフィリピンで紹介されていた日本の古典芸能は2件くらいしかなかったのだが。

 これにより反対勢力も少し矛先が収まり、結果として、フィリピンにおける反日デモは縮小された。意外とそのことを知っている人がいない。日本の国際関係をつないだのは日本の古典芸能だった。日本が島国でありながら自国のの伝統芸能を大事にするということから、フィリピン人にも自国の伝統への関心を持たせることがフィリピン大学の狙い。

 今回の登壇により、医学書・フィリピン案件に光を当ててもらう機会となりありがたい。大学に勤めていると理系・文系の対立があるように思うが、今回登壇された否定派のい二人は、ここまでくるからには、自分たちの中に無意識に持っている日本文化の発信力に目覚めなさいということを言いたいのだろう。議論が変な方向にいかないように。

 

…ここまでで第1部終了。長いので続きは次回

*1:2017年と同じパターン。明星大学日本文化学科国際シンポジウム「世界の写本、日本の写本」を聴いた。〜前篇 - みききしたこと。おもうこと。

*2:古典は本当に必要なのか(明星大学日本文化学科シンポジウム) - YouTube

*3:#古典は本当に必要なのか:開始前に漲る期待と緊張 - Togetter古典は本当に必要なのか?第一部(前半)のお話 - Togetter古典は本当に必要なのか?第二部ツィートまとめ - Togetter

*4:本質ではないので割愛するが、挑発的なテーマゆえか、開催前に既に紳士的でない議論がなされていたそうだ。大変だなぁ。

*5:QS世界大学ランキング - Wikipedia

*6:GAFA(がーふぁ)とは - コトバンク

*7:「大学に文系は要らない」は本当か?下村大臣通達に対する誤解を解く(上) | 鈴木寛「混沌社会を生き抜くためのインテリジェンス」 | ダイヤモンド・オンライン。また、関係のありそうな記事はこちらにも。大学教育への投資は理系文系、地方中央でどこに重点を置くべきか | 鈴木寛「混沌社会を生き抜くためのインテリジェンス」 | ダイヤモンド・オンライン

*8:ポリティカルコレクトネスとは - コトバンク

*9:新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち

*10:校註日本文学叢書. 第5巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*11:二条為世 - Wikipedia

*12:元の歌を知りたいなと思ったら、この本にあるようだ:兼好法師 (コレクション日本歌人選)。余談だがここに辿りついたのはこちら(兼好法師/2011.4)のお陰。ビバ目次索引。

*13:学習指導要領等:文部科学省

*14:医学書のなかの「文学」: 江戸の医学と文学が作り上げた世界

*15:物類品隲 6巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*16:スライドでは挿絵があって、獣っぽかった。

*17:倭訓栞. 前編45巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

*18:冒頭で述べておられた、日本人が自国の文化を知ることができるように発信していくこと=天命、という趣旨に自分は理解。