シンポジウム「アクセスの再定義 : 日本におけるアクセス、アーカイブ、著作権をめぐる諸問題」に行ってきた。〜第2部
前の記事の続き、第二部。
以下、xiao-2が聞きとれた/理解できた/メモできた/(一週間経っても)覚えていた範囲でのメモ。敬称は「氏」に統一。誤解、ヌケモレは多分あり。特に第2部は抽象的なテーマが多く、「いま大事そうなこと言った!でもメモが追いつかない…」と思う場面が時々あった。登壇者の発言の意味が不明瞭な個所、議論がつながっていないように見える個所は、ひとえにxiao-2の力不足。
- 北野圭介氏*1(立命館大学映像学部)
- 自分は映像学部に属する映画研究者。
- この学部では、デジタルテクノロジーで社会がどう変わってきたかを研究。映画、ビデオゲーム、CGなど色々なことを扱っている。
- 先週ロンドン大学で、似た内容の会議があった。デジタルテクノロジーが我々の生活にどういう影響を及ぼしているか。デジタル環境下で、いったい誰がどうかかわっているのか、ステークホルダーの全体が見えないという意見が多く出た。
- Appleがメディア環境を変えているという指摘。
- とある記事によれば、スマホでいま使われているのは90%がアプリであるという。キーワードを入力して検索するという、検索エンジン型のインターネットは消えつつある。
- アプリを作動して、スモールサービスに直接アクセスする。
- Apple watchやGoogle glassも、インターネット部分を少なくしつつある。2020年はアプリの時代となる。
- 制御と不可視。しくみがラディカルに見えなくなっている。
- アプリは「サービス」であり、オペレーション。これまでのようにコンテンツに表象があってそれを鑑賞するというものではない。
- プロパガンダ。デジタル系の本でよく見られる主張として、現在はセルフリプリゼンテーションの時代。そうした時代の中で、オペレーションソフトが発展している。
- ユーザサイドから言うと、コンテンツからプラットフォームへ。
- アプリは狭い範囲、スモールアーカイブにしかアクセスできない。
- コンテンツとサーキュレーション回路。その回路の中で初めてコンテンツが成立する。ミュージアムであれば、ミュージアムの展示。それはアーカイブからユーザへのアクセスの場ともいえる。
- ミュージアム展示というのはある程度フィックスしたものであるが、そうではない方法。ハリウッドではさきに世界観を設定して、その世界の中で色々な監督が映画を撮るという方法がある。芸術で言えばインスタレーション。
- 管理者サイドからすると、あるタイプの民主主義的な動き。ボトムアップ。みんなが使うものしか使えない、ボトムアップで欲望を規定されてしまう。
- 管理者のいる仕組みであればコントロールしていることが明らかだが、ボトムアップの場合、結果を決めるのは人間でなくアルゴリズム*2。
- そういう環境で育ってきている世代というものが現れる。アルゴリズム化されると、人間の責任の範囲ではない。
- 以上のような中でアクセスということを考えると、技術的チャンネルが避けて通れない。
- アプリ自体をどうやって人間側のアーキテクチャに近づけるか。A.I.はビッグデータで人間の思考を学習していく。アクセスもサーキュレーションモデルの中で新しい時代に向かうだろう。
- イアン・コンドリー(Ian Condry)氏*4:「ゾンビ―かサイボーグか」
- 具体的に今の著作権のことについて考えたい。
- ゾンビ―とは死んでいる、しかし死んでいると分からない存在。生きている人を喰らう。サイボーグとは、ネットワークと共生する存在。
- 著作権はもう終わっている。死んでいる。しかし死んでいると分からない。これからはサイボーグのようにネットワークとの共生が鍵になる。
- 最近の事例。Marvin Gayeの$7.3M*5。もとは1977年の曲だが、これをRobin thickeがアレンジした。同じようなグルーヴ。これが著作権侵害ではないかと訴訟になり、お金を払うことになった。曲が似ているというのと、Robinが原曲をイメージして作ったという点が決め手になった。
- これがゾンビのような著作権。生きている人を喰っている。
- 音楽シーンにおいては、アーティストだけでなくファンとのフィードバックがある。
- ピラミッド構造を考えると、裾野の方にあるのはファンであり未発掘アーティスト。その上にレコーディングアーティストが存在し、頂点にトップアーティスト。レコーディングアーティスト以上は経済的価値だが、裾野の部分は社会的価値の世界。
- こうした構造の中で、キャラクターがプラットフォームとなる可能性がある。
- 初音ミクについて*6。これはバーチャルアイドル。個々人がソフトを買って、自分の歌を作ることができる。一方でキャラクターでもある。
- 初音ミクの流行した理由を分析した著述によると*7、ニコニコ動画で著作権制限が厳しくなったことを背景に、初音ミクによるコンテンツが伸びた。
- ニコニコ動画の場合、コンテンツよりもその上に書き込まれるコメントが見える。これはソーシャル、ファンコミュニティ。これをもとにビデオゲームやライブに発展している。
- 一番大事なのがファンプロダクション。ボーカロイドマスターと呼ばれる人たちによるファンサークルの存在。ミクP*8が音楽を作り、他の人がイラストを描くなどにより作品が成立している。
- ひとつのミクではなく、色々なミクが存在する。これはもともとクリプトンが初音ミクというキャラクターを作ったとき、著作権の規定*9を緩やかに運用したため*10。
- たとえばファンサークルのための活動で、非商業なら著作権許諾なしに作れる。
- 同人グッズを売るのも、サークルの活動のためならOK。
- 本当に売れるようなものにはクレジットを入れる。
- コミュニティのエネルギーを認めてサポート。
- 同人作品を作る人は、何故作るのか。おもな動機は「作るのが楽しい」ということ。
- 「The Eureka Myth」という本*11でクリエイターに行われたインタビューでも、お金のために活動するという人はいない。コミュニティの動機が先で、コマーシャルが後。
- メディアもコンテンツからプラットフォームへ。価値はどこから生まれるのか。生みだされるもの(Production)は何か。何が交換(Exchange)されるのか。
- メディア外の人がメディアの世界をコントロールする手段としての著作権はゾンビ。これがニコニコ動画に代表されるような、ソーシャルなサイボーグになっていく。
- 上崎千氏(慶應義塾大学アート・センター*12)
- 自分は慶應義塾大学アート・センターで、前衛美術の資料体整理などをやっている。アーカイブの現場としての視点。
- 一方で利用者対応も仕事。データベースが稼働していないと、レファレンスが必要。その他、撮影禁止の監視なども。
- エフェメラル、たとえば書簡や、イベントに付随するチケット・パンフレットなども資料として扱う。本当にエフェメラルなのは資料ではなく、イベントそのもの。イベントと結び付いている。
- 書簡なども扱っていると、コンセプチュアル・アート*13的なものとの差が分からないようなものもある。コンセプチュアル・アートにはこれが芸術?と思うようなものもある。書簡などは、書簡でありながら芸術作品。
- コンセプチュアル・アート研究。マテリアルコーパス。作品とはパッケージであり、解説をつけるなど作品として扱うことで「作品」としての様相を呈する。
- 作品とは何か。コンセプチュアル・アート自体も既に美術館に入っている。エフェメラリティ、出来事とともに生まれて消える。これは芸術、これはチラシと分けていても意味がない。
- 現在、赤坂の草月会館にあった草月アートセンター*14の資料を預かっている*15。
- アートセンターで行われた290のイベントに対してどんな資料が残っているか。実際に並べてみた。イベントごとに資料の多いものと、無いものがある。資料が残されていないのか、もともと作らなかったのか。
- アーカイブというのは、ポスト「ミュージアム」的なものと考えている。ミュージアムは、展示にフィットするように作る。アーカイブはそもそも数えない。非「ミュージアム」的なグリッド。
- ひとつの例。草月で行われた「Words of Ono Yoko」展の案内状*16。
- 60年代くらいには、集団的な表現が多かった。誰がやったとも言えない。作った人だけでなく、それを「とっておいた人」「とっておく芸術」というのもある。一方で著作権はその性質上、作った人を一人にしないといけない性質がある。
- ディスカッション(以下、敬称略)
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- 北野
- ロンドンでの会議でも言及があった。
- アメリカでは、医療や訴訟をアルゴリズム化するという発想も出ており、人間主体をいかに確保するかが課題となっている。
- プラットフォームという点では、2000年代の検索エンジンの方が多様だった。
- 現在は広告やアプリ、あるいはLINEに動画を投稿するとまとめられてYoutubeで見られるといったサービスがある。投稿者本人から見ると「勝手に連携された」という感覚になる。
- そうした変化は一様でない。あるタイプの民主化が同時に進められる。
- 消失文化財の復興が一つのヒント。既に失われた文化財の場合、オリジナルがどういうイメージであるべきか分からないので、あるフォーマットに沿って、「ここまでは作家の意図を尊重」「ここからは根拠に基づいて復元」といったプラットフォームが作られる。
- これに似た仕組みが初音ミクと言えるかもしれない。特許を部分的に解除する仕組み。
- 北野
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- 上崎
- 草月会の音声アートを制作していた奥山重之助という人がいる。こうした技術者達によって残されていく芸術がある。
- 技術者とアーティストを兼ねるような動きというのは、60年代に一度起こっている。その中で作られたものが誰の「作品」か。
- 上崎
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- コンドリー
- フェアユースの考え方に近い。
- ヒップホップというのは、他の音楽からサンプルして作る。法的には勝手にサンプルするのは駄目だが、日常的には非商業でできる。
- コンドリー
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- 上崎
- 60年代くらいに集団的表現が多く行われた。それらの作品のオーサーシップはどうするかという課題。
- 上崎
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- 北野
- 映画は、フィルムなどモノへの固定を前提としてきた。それを根拠に著作権が組み立てられてきた。デジタル化によって、映画がモノから解放される。
- 一方で上崎氏の示したように、モヤシが入っているだけでオーサーシップが左右されるというケースもある。モノの概念が変わってきた。
- 北野
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- フロア
- 制御が不可視化され、社会化されていく。従来の制御は見えやすいが、社会化された制御は見えにくい。
- Wikipediaであれば削除された部分の空白について、なぜ空白かという修正履歴を残す。メタな情報を残すことが必要。
- オーサーシップの話。CC BY*18のように「こういう風に使って」ということを、権利者が自ら示す形で変っていく。たとえばJASRACの思想は「使っていいけどお金を払ってください」ということ。日本にはフェアユース規定がないので、権利者が自ら条件を示してくれないと使うことができない。
- またCC BYは、作った人の名前を残すということになっている。公共のオープンデータだと作った人ではなく、所蔵者の名前がCC BYに入っているケースも見る。
- たとえばAKB48の楽曲について、主にアクセスコントロール権を持つのは(個々のメンバーではなく)秋元康であるという認識は多くの人に受け入れられるだろう。そのような意味で、誰がアクセスコントロール権を持つのが望ましいか。
- フロア
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- フロア
- アクセスコントロール権とは、昔の音楽や映画を復元・再配布するにあたり、誰がNoと言えば差し止めできるか。
- フロア
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- 上崎
- もっと訴訟が起きる方が、事例が増えていいと思う。誰もかれもが著作権の専門家でもないのに、疑心暗鬼になってしまっている。
- 上崎
以上、第二部終わり。第三部は…元気が残ってたら書くかも。
*2:この部分聴きながら、xiao-2はこの本を連想した。
*5:お話の中で示されたソースは覚えていないが、xiao-2が検索して出てきた記事。The Guardian 2015/3/10付記事:Pharrell Williams and Robin Thicke to pay $7.4m to Marvin Gaye's family over Blurred Lines
*7:
*9:具体的な規定はこちら。piapro:キャラクター利用のガイドライン
*10:関連記事:Internet Watch2008/03/1付記事「初音ミクの著作権ってどうなの?」販売元のクリプトン伊藤社長が講演」
*11: The Eureka Myth: Creators, Innovators, and Everyday Intellectual Property (English Edition)
*15:参考になりそうな図書。輝け60年代 : 草月アートセンターの全記録
*16:この事例について、ご本人のエッセイ。MOMAブログ2013/2/15記事|草月アートセンターと『印刷された問題』── モヤシを貼りつけた案内状
*17:Yoko Ono: One Woman Show, 1960–1971
*19:xiao-2:「一番利益を得る人が一番権利を持つ」という趣旨かと思うが、とりあえずここで使われた言葉どおりに記述。profit-orientedという言葉についてはWeblio辞書|profit-orientedを参照した。
*21:xiao-2のメモでは記載しきれなかっただけで、もちろん司会のザルテン氏はここまでにも色々発言されている。