緊急シンポジウム「近デジ大蔵経公開停止・再開問題を通じて人文系学術研究における情報共有の将来を考える」に行ってきた。〜その2

緊急シンポジウム「近デジ大蔵経公開停止・再開問題を通じて人文系学術研究における情報共有の将来を考える」
http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~nagasaki/daizokyo2014.html

 前の記事の続き、レポート第二弾。例によってxiao-2が聞き取れて理解できてメモできて、なおかつ覚えていた範囲のレポート。項目立ては適当。敬称はおおむね省略。
 休憩を挟んで、永崎先生、安岡先生、井上さんの議論開始。

  • 永崎研宣先生
    • 井上さんより二次的著作物についてのポイントをお示しいただいた。これに関して質問したい。
    • 南伝で、著作権保護期間が終了していない翻訳者の権利はどう扱われているのだろうか。三つの可能性が考えられる。
      • 可能性1:記念会による団体著作物として扱われている。これなら公表後33年*1で、もう切れている。
      • 可能性2:監修の高楠博士個人の著作物として扱われている。NDLのこれまでのやりとりや、高楠博士から著作権大蔵出版に譲渡されているという話からするとこの可能性もある。高楠博士が全体の著作者という扱いならば、著作権は切れている。
      • 可能性3:今回の議論を追っている限り、各翻訳者の著作権についてはNDL・出版社とも触れていない。大蔵出版が個々の翻訳者に対しても著作権者として遇しているのであれば、話題に出てくるはず。とすると、翻訳者の権利はまとめて譲られているという可能性もある。
        • そもそも高楠博士と各翻訳者の関係はどのようなものだったのか。高楠博士への譲渡は暗黙の了解といった感じだったのか。たとえば翻訳者の一人である渡邊照宏は今からみると大御所だが、当時は若手で、弟子が手伝うのは当然といった感じだったのか。
  • 井上周一さん
    • 本件は大勢の人が関わっており、昔のことで直接確認も難しく、しかも著作権の規定の仕方によって解釈が変わるというややこしい話。日本の著作権法はそういう立て付けになってしまっていて、非常に複雑。
    • 団体著作物については、公表名義が団体であれば、公表後33年で保護期間終了。個々人の権利は団体著作権に吸収されるので、33年経てば個々の著作者の権利も含めて切れることになる。
    • 譲渡の問題について。翻訳者は自分の著作権を出版社に渡したのか、高楠博士に渡したのかという観点がある。個人名義で、翻訳者の権利があるとしたら、公表した人の死後50年。といっても、実際に契約を結んで譲渡していたのか。昔のことで、暗黙の了解があったのかもしれない。裁判するにも証拠がない。
    • 翻訳の著作権については、個別の翻訳者も主張する余地はないわけではない。
  • 安岡孝一先生*2
    • 「団体著作物だと個人の権利は吸収される」=「団体でなければ個々の翻訳者の権利がまだ有効」ということ?団体になるかどうかの判断は?
  • 井上
    • 団体著作物なら吸収される。団体著作物でなければ個々人の権利が生きる。
    • 団体著作物になるかどうかの判断は、裁判でもよく争われる点。
      • よくあるのが、初めは仲のいい有志で始めた活動だったのが、その後創作物の利用の仕方などで意見が食い違うケース。
    • 団体著作物とは別に、共同著作物(著作権法第2条第1項12号)という概念もある。
      • どちらになるか、判断ポイントのひとつは、団体の構成員がそれぞれどういう役割を果たしたのか。
      • たとえば南伝だと、大規模な出版企画なので、ある程度組織運営の実体があると思われる。そういうものだと団体著作物になる可能性もある。
  • 安岡
    • 南伝が団体著作物ならもう著作権は切れていることになるが、あえて団体著作物ではないと解釈した場合、翻訳者の権利は残っているのか?
  • 井上
    • その人の権利が及ぶのがどの部分か特定する必要はあるが、その部分については著作権が残っているといえる。
  • 安岡
    • 南伝は教典ごとに翻訳者名が書いてある。こういう場合は教典ごとに翻訳権が決まるのか?巻単位ではなく?
  • 井上
    • そう。2人で1巻まるごと作ったと表示されているのならその巻全体だが、章ごとの著者名が明確に書かれているなら章単位。
  • 安岡
    • NDLの近デジは、巻ごとでしか公開/非公開を決められない仕様のようだ。ある巻について複数の著作権者がいるとして、切れている人の方が多いから全体を公開するということをしたら侵害になるのか。
  • 井上
    • 残っているのが一人だけでも、侵害は侵害。
  • 安岡
    • たとえば6巻の翻訳には12人参加。うち7人は著作権が残っているということになる。この場合、7人分は黒塗りでもしないといけないということか。
  • 井上
    • そう。判例でも、刊行物の一部が著作権を侵害している場合は、侵害したページを除かないと出版できない。
  • 安岡
    • 南伝のうち22巻分については、今回の件がなければ著作権満了として公開されているはずだった。もし権利が切れていないとしたら、著作権者が権利侵害として訴える余地はあるのか。
  • 井上
    • 権利が残っていれば、それを公開するのは侵害になる。法的には差し止め請求が可能。賠償金請求も理論的には可能だが、ほとんどお金にならないだろう。こういうケースの場合著作者は最初に原稿料を取りきりでもらっていて、後からデジタル化で公開されたことによる経済的損失は生じていないと思われるため。
    • ただ著作権保護期間内のものでも、遺族から許諾を得て公開していた可能性もある。
  • 永崎
    • 高楠博士が著作権大蔵出版に渡したことが何を意味するか。翻訳者の権利に言及せずに、高楠博士の遺族が著作権を主張することは可能か。
  • 井上
    • 著作権譲渡は、昔だと契約書を取り交わさないケースが多く確認が難しい。テレビ番組などでも、複雑な権利関係になってしまっている。
    • 譲渡しているとどうなるか。財産的権利は譲渡できる。
      • 著作者人格権は譲渡できない。従って譲渡の際には、人格権不行使特約というのをつける。この条項が入っていなければ、著作者人格権は行使できる形で著作者本人に残ることになる。ただし相続はできない。甚だしく著作者の名誉を害するような使い方をされれば、遺族から文句を言える可能性はあるが。
  • 永崎
    • 大蔵経はいったん戦災で紙型まで焼けている。仮に著作権譲渡の契約書があったとしても、現在は確認できない可能性が大きい。
    • いま著作権侵害非親告罪*3が話題になっているが、そうなると、遺族以外でも告発することができるようになるということか。
  • 井上
    • できる可能性はある。
    • ただ、そもそも著作権侵害非親告罪化というのは、警察が捜査しやすくなることを目的としている。海賊版の取り締まりの際、同じ会社が複数の種類の海賊版を作っていたとすると、捜査のためにはコピーされたすべての企業から被害届を出してもらわないといけない。それでは捜査しにくい、という面から考えられているものなので、NDLのデジタル化ではあまり関係ないかもしれない。
  • 永崎
    • こういったことは一見細かい問題に見えるが、人文系研究者というのは学術情報を作っていかなければならない立場。NDLは公金で知の共有を果たそうとしている機関。人文系の研究者も同じことで、研究は公金でする機会が多い。
    • 公のミッションとしてやっていくには、人文学の研究の世界で成果を出したというだけでなく、その成果を説明することが必要。学術情報をなるべく広く流通させなくてはいけない。
    • そういった外的圧力も高まりつつある。最近ではオープンデータ*4という考え方も出てきている。アメリカでは公金を使った研究の場合、研究成果を公開することが求められている。
    • 日本はまだこれに比べると牧歌的だが、これからはより広まる形で提供していかなくてはならない。
    • そうした状況のもとに、Webという媒体がある。Webは無料…ということになっている。実際にはWebの維持には公金を含むたくさんのお金が使われているのだが、保留はあるにせよ一消費者レベルとしては無料。無料の媒体を使うことで、情報を広めていくことができる。
    • 一方で、情報を作った人の権利は残っている。お金をとれるような権利に限らなくても、権利はある。それに基づいて、後々どういう主張をされる可能性があるのか。情報マネジメントの観点から、できることとできないことを押さえておかなければならない。
    • ではここで、SAT大正新脩大蔵経テキストデータベース研究会代表である下田先生にお話いただく。このDBは、NDLが大正新脩大蔵経の公開を再開した根拠のひとつでもある。
  • 下田正弘先生(SAT大正新脩大蔵経テキストデータベース研究会代表)
    • まとめというか、問題提起をしたい。大蔵経DBをどのようにやってきたか、そこで生じる問題にどう対処してきたか。どういう角度からとらえるべきか。
    • 過去の知識、伝統を継承する仕事は、著作権という既存の概念で覆いきれない。違う部分もあるし、時にコンフリクトすることもある。
    • 文化を継承する営みをいかに保護するか。法で保護されていない課題に取り組む必要がある。法は事後的に決めるもの。もちろんそれも大事だが、法を離れて、どういう理念に立って考えるべきか。
    • 著作権の考え方は、仏教の知識が生み出され、継承されてきた実態にうまく合わない。
      • 大正新脩大蔵経は、著作権が認められるとしても二次著作物の扱い。すなわちクリエイティビティがどう付加されているか、という話になる。
      • そもそもその元になった教典は、玄奘三蔵という人がサンスクリット語から訳したもの。これは見事に原文そのままの訳。言い換えると、創作性をいかに付加「しない」かが重要。その結果、この教典がアジアの文化を作り上げる重要な基礎となっている。しかしそうした営みは、創作性を求める現在の著作権運用でカバーできない。
    • 著作権保護の対象外になるものとして、憲法などの法律がある。理由は、法律は国民に広く共有されるべきであって、しかも国民の利害に直接関わるものだから、ということ。これは文化にも半分当てはまる考え方。当てはまるのは「共有」の部分。でも法律のようなものと、1000年単位のものでは考え方も異なっているべき。そのおかげで各国独自の文化が成り立っている。
    • 人文系学術情報の将来について考えると、「創作性」という概念には屈折がある。
      • 人文系の学問は真理を追求する、その真理は「新たに発見されるもの」ではない。教典に新しい文言を付け加えたことによって、文化を継承するという営みが保護されるという考え方ではない。
      • 自然科学の場合は、どんどん更新されていく。前の努力との差異が評価の対象となる。
      • しかし一方で、人は同じように生まれ、死んでいく。そこに意味を継承するのが人文科学の営み。これをいかに保護するか。
      • 著作権の考え方を拡大することでカバーできるならいい。しかしそうでないなら、著作権著作権として、他の部分は他の方法で保っていく必要がある。
      • その意味でクリエイティブコモンズ*5に属する話であって、知的所有権の理念とは違う。実際の運用は知的所有権として扱わざるをえないとしても、Commons(共有物)であり、個人の財産に帰するものではない。
    • SAT大正新脩大蔵経テキストデータベースプロジェクトにおいても、色々な課題があった。それらを解決するときの考え方は、過去を継承してきた人の努力に敬意を払い尊重するということ、そして新たなものを作り上げていくということ。どちらかだけやると片方ができなくなる。
      • 現在は今まで見えなかった問題が見えてきている。
    • 一切経刊行会」とは、研究者が集まって、経典を世界に発信していこうという取り組み。寄付で成立。出版社も関わっていなかった。プロジェクト参加者のひとり渡邊が社会福祉の活動を色々やっていたから、支援や人材が集まったという面もある。
    • 当時の仏教研究と言えば、イギリスで出版されたパーリ語のテキストだけが流布していた。西洋中心。東南アジアにしか仏教はないと思われていた。
      • これに対して、大蔵経が洋装本で流布したことによって、東アジアにも仏教があるということが認識された。
      • やがて、それが一出版社の担うものとなって刊行されていった。その間には海賊版で被害を受けたりもしているが、その時研究者は何もできなかった。
    • 90年代になって、新しい媒体で発信していくことができるようになった。その活用に当たっても、過去の歴史を踏まえることが大事。著作権が残っているかどうかに関わらず、そこまでの文化の継承は尊重されるべきという結論に達した。
    • 当時、台湾のチームでも同じように大蔵経をテキスト化するプロジェクトをやろうとしていた。
      • しかし大蔵出版は過去に台湾の海賊版で痛い目にあっていたので、なかなか首を縦に振らなかった。自分のチームが両者の間に立って調整した。
      • 最終的に大蔵出版が許諾してくれたとき、それは仏典をこれまで残してきた過去の人々の努力が、国境を越えて生かされていくための大きな決断だったといえる。
      • 科研費と寄付金、半分ずつでデータが完成した。費用は6億円、年月は13年かかった。
    • データは時代と共に新しくなるべき。現在の問題に立ち向かいつつ、先の課題に進んでいく必要がある。
    • 大蔵経も徐々に校訂され、姿を変えていく。現在の議論が有効でなくなる部分も出てくる。そういう問題に立ち向かっていくために、このシンポジウムが開催されたのだと思う。
    • 著作権で保護しきれない文化の継承をいかに行うか。
      • デジタルによる知識基盤がどんどん生まれている。使わなければやっていけない。自然科学系は特にその傾向が強いが、人文系の学問でも同じこと。
      • 一方で、クリエイティビティのないものは保護から取り残されるという問題がある。評価されず、お金が集まらない。
      • しかし本来、二次的著作物が生まれてくる基盤となるのは、クリエイティビティのないものの方。
    • インフラをいかに整備するか。これは、日本の文化を継承していくために欠かせない問いであろう。
  • 永崎
    • デジタル媒体を前提とせざるを得ない状況において、欠かせない論点だ。

 ここまでで、午前の部終了。

 下田先生のお話は短かったけれど、自分としてはハッとさせられた。文化とは著作権で保護されるものばかりではないし、文化を継承していくことは更新していくこととイコールではない。継承のように著作権でカバーされない部分をいかに保護していくべきか、と理解した。非常に大事な視点だと思う。が、何しろ自分のメモが追いつかず、書き出してみるといかにも言葉足らずで口惜しい。
 口惜しがりながらも、もう眠気の限界なのでここまで*6

*1:旧法の規定による。参考:著作権なるほど質問箱 4.著作者の権利

*2:2014/02/02追記:以下安岡先生と井上さんの議論につき、ご本人よりコメントあり。本記事のコメント欄参照。

*3:Wikipedia著作権の非親告罪化

*4:ITPro日経コンピュータオープンデータとは

*5:参考:Creative Commons

*6:せめて関連しそうな論文を紹介しておこう。/下田 正弘.永崎 研宣. 大蔵経と人文系データベース. 情報処理学会研究報告. 2009年度(1) 2009.6