本棚のなかのニッポン

 ひとに勧められて、読んでみた。

本棚の中のニッポン: 海外の日本図書館と日本研究

本棚の中のニッポン: 海外の日本図書館と日本研究

 既にオンラインで書評がいくつも出ている*1が、あえて読まずに感想を書いてみる。でもよその方が1024倍くらいためになると思うので、書評を読みたい方はそちらへ。

 本書のテーマは、海外の日本研究図書館の現状や、取り組みの紹介など。著者は国際日本文化研究センターに勤務で、複数のブログをお持ちの方*2。ブログの軽妙な文体が以前から好きなのだが、本書は真面目な本だからかさすがに抑えめになっている。一方で図書館用語にはいちいちきちんと説明がつけてあり、図書館関係者以外の人に伝えようと努力されていることが感じられる。…と、ここまでが本の紹介。正確なところはご本人のブログの方が2048倍くらいためになるので、ご興味を持たれた方はそちらへ。


 以下はこの本に書いていたことというより、この本をきっかけに自分が考えたことをつらつらと。

 まず思ったのは、日本人以外の人に日本が研究されるということの意義について。
 短期的な意義は分かりやすい。世界の文脈における日本の存在感が増すこと。長期的な意義は、日本でないフィルタを通すことによって、日本人が気付かない日本のユニークな点がかえって正確に保存してもらえることがある、ということ。
 自分が連想したのは日葡辞書*3。日葡辞書というのは中世にポルトガル人が作った日本語の辞書で、当時の日本語を調べる上での必須資料。なぜ重要かというと、当時の日本語は現在とずいぶん発音が違っていたらしい。昔の「はは」は、今いうと「haha」ではなく「fafa」と発音したという。でも日本人にとって「はは」は「はは」だし、史料にも「はは」としか表記できない。日本語を母語としないポルトガル人がポルトガル語で残してくれているお陰で、当時の発音を知ることができる。
 ことばの発音の変化というのはかなり長いタイムスパンの話だけれど、比較的当面の問題としては、資料自体の保存の話がある。たとえば浮世絵とか古典籍の類も、海外で珍しがられたことによって残されていたりする。当時の日本人にとっては当たり前過ぎて、わざわざ残す必要性が感じられなかったのだろう*4。そういえば本書p102の「19世紀後半を中心とした日本研究の動き」で、1847年にフィッツマイヤー、柳亭種彦「浮世形六枚屏風」をドイツ語翻訳したというのが載っていたのだけど、なぜ種彦?と面白く思った。なぜ源氏物語とかの分かりやすい有名どころでなく、この作品だったんだろう。

 本書で触れられていた話題に返ると、マンガ資料の収集の難しさがまさにこの話と重なる。「マンガそのものもそうですが、関連書や参考図書もすぐ品切れ・入手不可能となってしまう(p209)」「マンガの選書・蔵書構築のための書誌やレファレンスツールが整備されていない(同)」と指摘されている。これは確かにそうだ。別に海外のためじゃなく、日本で日本のマンガを保存する上でも大きな壁だ。
 資料保存を担うはずの図書館も、マンガの収集・保存には普通あまり積極的でないし、なかなか行き届かない*5。結果、70年代の専門雑誌のバックナンバーよりも、数年前のマンガ雑誌のバックナンバーの方が図書館で探し出して読むのは難しい、なんてこともある。そうなる理由も分かるけれども。

 資料保存というところからさらに妄想を広げると、じゃあこれから電子化が進んでいくとどうなるのか。紙の資料ならば、万一日本に何かあった時、海外で保存されていたコレクションがバックアップの役割を果たしてくれる。でもオンラインデータベースの場合、日本国内のその会社、あるいは日本自体に万一のことがあった時には、海外の情報源まで諸共に消えてなくなることになる。かといって、電子化しないともちろんアクセスがしにくい。アクセスがしにくいと関心が持たれない。関心を持ってもらえないと、どのみち残らない。紙の時代ならば「アクセスしやすくする=たくさん刷ってあちこちが所蔵する=保存しやすくする」だったと言えるが、電子化の進んだ時代にはこれはどうなっていくのだろう。

 一方で、流れるのは電子情報ばかりではすまない。
 第8章では、海外からのILL*6受付に積極的な早稲田大学図書館の姿勢が紹介されていた。「情報の提供・発信は、それ単体で機能しているわけではない。その先に何が起るか、何が必要になるかも含めた、トータルでのサービスが意識されるべき(p269)」という本書の指摘は、確かに、と思う。
 ILLというのは手間がかかる。OPACで所蔵情報を流すのだって手間はかかるけれど、現物を移動させる労力は比べ物にならないだろう。物理的に体も使うし、お金も絡む。その労力はもちろんタダじゃない。
 かかるコストをどう配分するかは、最終的には図書館の外の人が決めること。情報発信するぞ!の部分にだけ力こぶ入れても効果は高くないし、ILL受け付けるぞ!と図書館の人だけが鼻息荒くなってもできない。大学図書館なら大学の構成員、公立図書館なら自治体の構成員が、そういうことに価値を認めてくれないことには、トータルなサービスを前提にできない。早稲田大学では、きっと自学の名前をそういう形で海外に売ることの値打ちがきちんと理解・共有されているのだろう。


 そう考えてくると、日本情報を発信することのポイントは「日本の価値を、日本の外の人に分かってもらう」ことのように見えて、実は「日本の外の人にとっての日本情報の価値を、日本の中の人に分かってもらう」ことでもある。


 本書は日本情報を海外へ発信するという枠組みの話だけれど、ちょっと応用してみると、たとえば地域情報を全国へ発信するという枠組みの話になる。「日本情報を必要とするのは日本リテラシーの高い人ばかりとは限らないという想像力が必要」という本書の指摘も、同じく色々なレベルに応用できる。さすがに言語の違いとか円高の影響といった海外ならではの障壁はないけれど、それはそれで他の難しさはあるだろう。
 さらにこの枠組みを図書館という次元に持っていってみると、図書館の人の情報を図書館の外の人にどう発信するか、という話にもなる。…と気付いたところで、図書館用語にいちいち注をつけている本書の書きぶりが姿勢が思い出されて、おおっとなる。そういうことか。日本情報を日本以外に発信することを意識している人は、図書館の中の情報を図書館の外へ発信することも意識している人でもあったよ。

 そのように図書館の外の人に分かる姿勢を心がけている本なのだが、いっぽうでふとした一文に著者のライブラリアンらしさを発見することもあった。たとえば、海外の各大学のOPACで、日本語の漢字の処理の仕方によって検索結果が変わってくることについての記述の部分。

OCLCではプログラムによってこのような検索・表示上の不都合を除いているとのことですが、各大学のOPAC(蔵書検索データベース)で実際に検索してみると、ヒットしてくれたりくれなかったりとまちまちでした。(p160)

 データベースを作るSEさんなら「ヒットしない」というだろうし、ユーザでも「ヒットしない(しやがらない、かもしれないが)」と表現しそうなところ。「ヒットしてくれる」に、作る側でもありヘビーユーザでもある図書館の中の人ならではの微妙な思い入れが滲み出た感じで微笑ましかった。ま、妄想かもだけど。

*1:たとえばこちら。かたつむりは電子図書館の夢をみるか|2012-06-04 ふだん意識しない「海外にあって日本語/日本の本・情報を求める人」に気づかせ、できることを考えたくなる本:『本棚の中のニッポン』

*2:ご本人プロフィールはこちら、本書のブログはこちら『本棚のなかのニッポン』blog

*3:Wikipedia:日葡辞書

*4:この本でも以下のように指摘されている。「日本国内では戦前までは和本が溢れていたため、珍本・稀本にばかり気をとられて、かえって雑本類の美本にはあまり注意が払われてこなかった実状の反映であり、外国人収集家にとってはすべてが珍しく映った結果、現在のような和本払底の日本国内ではむしろほとんど見出し得ないものとなってしまった結果であったろう。」第5章「海外の和本事情」(p244)

和本のすすめ――江戸を読み解くために (岩波新書)

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*5:NDL-OPAC雑誌記事索引によると、古くは1977年9月の「学校図書館」や1980年2月の「図書館雑誌」でマンガの所蔵について特集しているようだ。内容は読んでいないが、タイトルを眺める限り慎重な意見が多かったことがうかがえる。

*6:図書館同士での資料の貸し借り