「知」の欺瞞
アタマのいい友人が面白いと言ってたので読んでみた。というか、ぽすともだんってなにそれおいしいの?*1な自分にとっては、友人の推薦でもなきゃ絶対手に取らなかったと思う。
xiao-2の理解で無理矢理要約すると:ポストモダンと言われる社会科学や人文科学の言説の中には、カッコよく見せるため、自然科学の用語や考え方を正しくない理解で適当に使ったり、自然科学のやり方を無闇と否定した極端な考え方に走ってるものがある。気をつけろ!ということらしい。
この本には背景がある。著者の一人アラン・ソーカルという人は上記のような状況に怒っていたので、わざとでたらめな論文を書いて雑誌に投稿してみたのだそうだ。そしたら「これデタラメじゃん」というツッコミも受けずに載ってしまったのだとか。
小・中学校のとき、読書感想文の宿題にうんざりして「あーこれ架空の本をでっちあげてでたらめ書いてやりたいな、先生だって絶対ちゃんと読んでないしバレないだろ」といういたずら心に駆られた経験のあるひとがいるかもしれない*2。が、大人になってそういうことをやるひとがいるとは。
もちろん真面目な批判精神に基づいてやってることだし、少なくとも架空の論文は引いてなくて、すべて実際の知識人の書いたものから引用して組み立てているというのだから、小学生のいたずらとはレベルが違う。なんだけれど、なんだかページの向こうでしてやったりという顔されているような感覚があるせいか、堅い上に鋭い批判本だというのに読んでいて憎めない。
本の内容としては、自然科学の用語を正しくない理解で適当に使っているとされる人たちの文章の実例をガンガン引用して、自然科学者としての観点からツッコミを入れまくるというもの。
引用されてる文章の大半は、自分にはほんとに理解できなかった。単独で読んでいたら哲学の素養がないからかと泣き寝入りしていたところだが、それにツッコミを入れているということは分かる。「難解なのは深遠なことを扱っているからではなく、中身がないからだよ!」とぶったぎられるのは、こっそり安心する話でもある。
ただ素養のない身の悲しさは、ツッコミの方も本当に込み入った説明になるとついていけなくなるところ。特に数学方面の話。「この人はAをBという意味で使っているが両者は違うものだ」と言われれば、違うんだなぁ、とは分かるが、じゃあほんとはAってどういうことかという説明については必ずしも理解できるとは言えなかった。
とは言え、出来る限り誠実に説明しようとしているのは感じる。素人向けにカットした部分は「カット版です」と明記することも含めて。たぶん、分かっていないということを分からせるのが目的でもあるのだろう。
エピローグの、自然科学と人間科学の関係についてのまとめ。ここは常識的なくらいシンプルだ。
・自分が何をいっているかわかっているのはいいことだ。
・不明瞭なものがすべて深遠なわけではない。
・科学は「テクスト」ではない。
・自然科学の猿真似はやめよう。
・権威を笠に着た議論には気をつけよう。
・個別的な懐疑と極端な懐疑主義を混同してはならない。
・曖昧さは逃げ道なのだ。
これを疑問文にすると、自然科学用語をまぶしたよく分からないモノに出会った時や、何かのはずみで自分がそういうモノを作ってしまいそうになった時の予防薬になりそうだ。「自分が何を言ってるかわかってますか?」と。