フォト・リテラシー

 阪神・淡路大震災から15年。大きな被害を受けた地域に住んでいた友人から聞いた、当時の話。

 近所に文房具屋さんがあった。店のおじさんは無事だったが、店は全壊してガレキの山になった。最初の大きい揺れが収まると、おじさんはそのガレキの下に何度も潜り込んでいった。無事な商品を救い出すためだ。馬鹿なことを…と言ってはいけない。それがないと明日から生活できないのだから。友人ははらはらして見守っていた。
 そこへ、度々テレビ局と思われるヘリが飛んでくる。低空飛行するので、地面に結構な震動がくる。その度にガレキも震動して、おじさんの潜り込んでいった隙間がじりじり狭まっていく。早く出てきて!と思わず叫びながら、友人は心底怒りを覚えたという。救助のヘリならともかく、私たちを見せ物にして面白いか!そのために危険を増やすのか!…と。

 なまなましい体験談に、自分は言葉をなくした。
 それから震災の映像を見る度に、この話を思い出す。焼け野原になった神戸の街の映像。これを撮るためにヘリが飛んだのか。その時も地面が揺れたのか。余震に敏感になっている被災地の人はどう思ったか。
 だからマスコミがいかんという話ではない。危険な場所に行って、辛い思いをしながら情報を集めて伝えるのがマスコミの仕事。情報がなくては支援も集まらないし、教訓も伝わらない。
 ただ、見る側としては「その映像に何が映っていないか」「その場所にカメラがあることで、どんな影響があったか」ということを意識した方がいいよね、と思うようになった。災害だけでなく、事件報道等でも同じ。容疑者が記者の質問に逆ギレしている映像は凶悪で犯人っぽく見える。が、もし自分が容疑をかけられてカメラの前に立たされたら、果たして穏やかに対応できるものかどうか。


 さて、一年以上も前のよそのブログ(フォト・リテラシーの必要性:シロクマ日報)で「フォト・リテラシー」なる言葉が紹介されているのを見つけた。そこで興味を引かれて買ったのが、元ネタのこの本。

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

 想像していたより文化論寄りの話だったが、面白かった。有名な写真集を実例として紹介しつつ、写真は報道とアートの間で揺れ動くもの、「写っていることは真実」とは限らないよ、と論じていく。写真というのはなるほど「読む」ものなのだと実感する。
 実物を写したはずの写真がなぜ真実とは限らないか。自分の印象に残った点を無理矢理要約すると以下の3つ。
・写真そのものが「作られる」。モデルを使った演出、トリミング、諸々のテクニック。
・写真の読み方が誘導される。写真の選択、並べ方、キャプションの付け方。写真家ではなく編集者の意図が入ることもある。
・写真に写るもの(被写体)の選び方に写真家の思想が反映される。東南アジアにエキゾチックなイメージを求める人は、それらしいものばかり撮る。
 この本では静止画である写真だけについて論じているが、動画についても同じことが言えるだろう。

 ただ個人的には「撮影そのものが被写体に与える影響」という視点についても何か言ってほしかったなぁ、と少々残念だった。カメラがその場所にあることで、善し悪しは別にして何らかの影響があるはず。手つかずの大自然の映像は撮影チームが踏み込んで撮ってきたものだし、大家族ドキュメンタリーならカメラマンという他人が家にいる状態でみんな生活している。量子力学かなんかで聞いたことのある、観察それ自体が観察対象に影響を与えるという話を思い出す。


 震災の日を前に、13日にはハイチで大地震が起きた。悲惨な映像はそれだけでショックで、何かしなきゃと思わされる。だけど、そこに映らなかったものや、映る前後にどういうことが起きたかを想像しつつ見る冷静さも必要なのだろう。きっと。