アウトリーチ活動を小声で応援する。

 前回の記事でも挙げたこの本。

単純な脳、複雑な「私」

単純な脳、複雑な「私」

 今年買った本の中で一番面白かったかも知れない。あまりに夢中になって読んだので冷静に感想が書けない。とにかく超面白いんだよ世の中の見え方変わるよ騙されたと思って読んでみてねえねえねえ、と鼻息荒く本を押しつけることになる*1。ということで本自体の面白さについてはさておく。

 ところがこの本の「おわりに」を読むと、一転して複雑な気持ちになる。
 研究者が素人向けの一般書を書いたり講義をしたりする社会活動を、「アウトリーチ活動」と呼ぶ。このアウトリーチ活動に対しては、色々と批判的な意見もあるのだそうだ。
 著者の池谷さん自身は謙虚に「(アウトリーチ活動は)気軽に、好きだからやっている」と言い、批判に対しては

 なかには科学者視点に偏った意見もあるようにも感じられますが、しかし厳密な意味で、私にはこれに反論することができません。実際この本についても、その準備に深夜や休日しか費やさなかったとはいえ、しかし、そうした時間を研究に専念したのならば、あと一報くらいは専門論文を発表できたかもしれないと、自分でもそう思うからです。(p410)

 という葛藤まで正直に述べている。

 読者としては、せっかく楽しませてもらったので何とか著者を応援したい。
 この本は本当に面白くて、それこそ血気盛んな10代でこんな講義を受けたら脳科学の道を志したかも知れない。実際に次代の研究者になる人は一握りでも、それが研究の裾野を広げるんだよと言うこともできる。自分のような一市民でも脳科学を面白がる人が増えれば、自分たちの税金がその研究に投入されることに抵抗が減るだろう。だから研究費の充実につながるかも知れないよと言うこともできる。

 でも、じゃあ面白ければいいの?と聞かれれば、胸張って反論できない。アウトリーチ活動に向く分野とそうでない分野があるだろうし、研究者にも向き不向きがあるだろう。素人向けな面白さのある学問だけが重要なのか?アウトリーチ活動は下手でも研究は一流という人は無視されていいのか?何より、この本を書くために費やされたコスト(著者の時間と労力と、それを支える社会的コスト)は、面白かったという理由で許されるのか?
 池谷さんが葛藤したように、読者である自分も悩む。確かな知見はない。小さい声にならざるを得ない。

 それでも学問研究の面白さを語ってくれる人がいることはありがたい。研究者というのはたいていその研究が好きで仕方ない人々だから、そういう人が分かりやすく語ってくれるのが一番楽しい。やめてしまわれたら寂しいし、やめざるを得ない世の中になったらもっと寂しい。
 だから小声でこっそりと応援する。「面白かった、ありがとうございます」。

*1:実際そういうことをしたために前作の「進化しすぎた脳」は手元になかったりする。