インターネットはからっぽの洞窟

インターネットはからっぽの洞窟

インターネットはからっぽの洞窟

面白い。奥付を見たら1997年刊行だから、もう干支ひとまわりも昔だ。その時間の経過も含めて、面白い。
それは今は解消されてるのでは?と突っ込める箇所がある一方で、12年前に提示されているのに、未だに解決されないまま残っている問題点がいくつもあることに驚かされる。
この本で図書館は、インターネットに対立する概念の一つとして登場する。

  • OPACが出来るようになったことと、出来ていないこと

ARGライブラリーアカデミーで「OPAC再考」というテーマを目にしたものだから、思わず触発されてあれこれ考えながら読んでしまった。

オンライン図書目録ではカード式目録と同じことはできない。オンライン図書目録は、著者名とタイトル名で分類された書籍在庫リストにすぎないのだから。つまり本の題名がわかっていて図書館に行くのであれば、誰でも楽勝なのだ。(中略)しかし本の題名がよくわからないとなると、オンライン図書目録はそんなに甘くない。(中略)そういうときは、件名目録別分類機能や相互参照機能を利用することになるのだろうが、そこらあたりの情報登録に関してオンライン図書目録はあまりよくできていない。件名目録は、一冊につき二、三しか登録されていないし、登録されている件名目録も相互参照されていないので、カードで調べるときのように、本から本へと渡り歩くことができないのだ。(335p)

(シカゴ市の図書館情報システムについて)このシステムのコンピュータは、検索にかけた本が市内の公共図書館になければ、その本の分類番号さえ教えてくれない。だからその本がありそうな本棚に行って、類書があるかどうかも調べられない。(340p)

今のOPACはどうだろう。案外、これらの問題がそのまま残っているような気がする。
トピックから本を探すテクニックは存在しているけれど、使いこなすのはそれなりに知識がいる。図書館員以外の普通の人が「本から本へと渡り歩く」のは難しい。それならAmazonのおすすめ本の方がよっぽど当てになる。

その図書館に所蔵のない本を探すのも難しい。もちろん今は総合目録とか横断検索というものがあるが、正直、やっぱり使いこなすには知識と根気がいる。第一そういったツール自体が広く一般に知られているとはとても思えない。

タイトルが一文字でも違っているとヒットしない、というのもフラストレーションの元だ。
しかも、人間はタイトルを正確になんか絶対覚えられない(断言)。「調べる・相談する 福井県立図書館」の「覚え違いタイトル集」を見るとよく分かる。こんな記憶を頼りに目的の本を探せるOPACってどんなんだ?

やはり今でも、OPACは基本的に本を探すための道具であって、情報そのものを探すための道具にはなっていない。

そういった部分のフォローを機械でなく図書館員が担っているのが、今の図書館なのかも知れない。人間がやった方が良いことはたくさんある。コンピュータを使えない人にも応対できるとか、言語化されない要求を汲み取ってくれるとか、笑顔でサービスされると嬉しいとか。
ただ問題は、スキルの低い司書に当たったらお気の毒様、ということである。もしOPACのシステムそのものにフォロー機能が充分に備われば、その機械を入れている図書館では、誰でも最低限同じレベルのサービスが受けられることになる。チェーン店と同じだ。果たして、どちらが良いんだろうか。

図書目録システムでは、ブール演算子を使わなければ、「サターン」をキーとして検索をかけても、それが惑星のサターンなのか、農耕の神のサターンなのか、乗用車のサターンなのかを区別できない。だから探し物をするには、ブール演算子で検索ロジックを表現する方法を習わなければならない。これでは図書館利用者総プログラマー化ではないか。(337p)

これは、さすがに解消されているよなあ。システムの側が改良されたということもあるし、使う側も検索エンジンの普及のお陰で、検索窓に複数の言葉を放り込んで間にスペースを入れておけばいい、という共通認識がなんとなく出来上がっている。

  • 図書館員の役割

で、図書館員の人たちなのだけど、なにしろ何世紀にもわたって、それこそありとあらゆる種類の本を分類してきてるのだから、索引作りにかけてはやっぱりベテランだと思う。なのにデータベースの設計に際して、図書館員が相談を受けたという話はめったに聞かない。(355p)

うーん、図書館情報学の人が書いたものを読むと、逆に図書館員はデータベースの設計くらい当たり前に分かってないといけないのじゃなかろうかと思わされるよ。自分できてないけど。

コンピュータ業界には、店員の役割を軽視する人間が大勢いる。彼らは、カタログや商品リストさえあれば、店員などいなくても商品は売れると思っている。ネットワークなら潜在顧客のモニタに直接商品情報を送れば、それで商売は成り立つし、店員の給料ぶんが浮くと考えている。
 店員なんかたんに商品を売ってるにすぎないとみなすのは、彼らの果たしている重要な社会的役割をみくびるものだ。優秀な店員は、商品販売が上手なだけでなく、お客が何をほしがっているかに対しても非常に敏感だ。あまり当たり前のことだから、誰もあえて口にしないが、顧客も雇用主も店員から恩恵を受けているのだ。

店員=図書館員に置き換えても読める。利用者からこう思ってもらえる図書館員なら、インターネットを怖がる必要はないだろうな。

  • インターネットの有限性とコスト

高負荷状態のネットワークでは、パケットが遅延し、ネットワークがさらに遅く感じられる。(中略)つまりインターネットが遅くなるのは、共有放牧地の悲劇なのだ。牛を放牧する村人が少ないうちは、すべて順調で、村人も村全体も反映するが、なんせ無料だから、誰もができるだけ多くの牛を放とうとする。(中略)こういう問題の原因は、僕らが有限資源を無料で使ってるところにある。(347p)

インターネットの情報も本当は無料ではない。壁づたいに配線されている緑のイーサネットケーブルも高速パケットルータも(中略)、どこかの誰かがそれなりの対価を支払っているのだ。(348p)

言われてみれば当たり前のこと。こうして書いているブログにしたって、自分は無料で使っているが、どこかで誰かが何かのコストを負担しているはず、でなければサービスが存在するはずがない。…はて。するとどこにかかっているんだろう?

ちょうどこんなニュースを見たところ。
Google検索1回で7gのCO2排出 - 検索の環境へのインパクトが論争に
この数字の信憑性はともかく、インターネットに接続すれば受けられる数々の無料サービスも、そのインフラを考えれば当然物理的には有限でコストのかかっているものなのだ。これまた、言われてみれば当たり前のこと。

思うに、出版言論の自由を要求しながら、法的訴訟からの保護も必要とするBBSは、一種の法的空白領域なのだ。(365p)

なるほど。なんとなく腑に落ちる。